武田洋の撮った写真を最後に見たのは多分、ももこが中二の頃だ。
その時の写真は地元のローカル紙の広告に使われ(新聞を読もうとかの類だ)、近所でも瞬く間に評判になりそのパネルやポスターを目にしない日などなかった。
四つ切りに切り取られた中で白く輪郭を失う、太陽が見せる表情のほんの数秒を切り抜いて、それを初めて見た彼女は心臓が早鐘を打ち痛んだ。
洋の写真は、いつだってももこの胸を熱く騒つかせるには充分事足りていた。
その日は湿度の高い、茹(う)だるような暑さでその場に立つだけでも背中がじっとりと汗ばむ程だった。
そんな体育館、今朝の全体集会でも相変わらずな彼を見つけてしまった。
受験生特有の緊張感なんてまるで感じさせない、空気みたいに飄々と漂う姿はやはりももこの苛立ちを煽った。
進学校だということをつい忘れてしまいそうになる、彼らの進路は一体どこへ向かうのか。
「まるこ。」
その一際間の抜けた声は振り向かずとも分かる、いつもの群集からからかうように視線を投げて来る洋。
「用もないくせに呼ばないでよ。」
「顔見知りで仲良しの可愛い後輩に、声掛けてるだけだろ。何をそんなに目くじら立てて。」
なあ?と、何も可笑しくなんてないのに洋は笑っている、それが尚更ももこを煽る。
「もうすぐ夏休みだけど、洋くん受験する気あるの?」
「本当だな、早いな一年て。」
まるで他人事。
「ちょっと、はぐらかさないでよ。」
「はぐらかしてねえよ。」
そしてそれを容易く見逃すももこではない。
「まあ、心配するなよ。まるこには到底無理な国公立大合格するからさ。」
「いちいち一言多いし、何でそんなに自信満々。」
ももこには洋の言葉の意図がひとつも見えない、ただ今言葉を交わす彼の生意気そうに笑う口元に酷く懐かしさを感じていた。
それは自分の実力とか限界を知らない、寧ろそれすら飛び越えて行くから見ていろと言わんばかり。
洋と初めて出会ったあの時に酷く似ていた。
今なら聞き出せるのだろうか、彼が写真を止めてしまったという真意。
そこへ集会開始を促す教師の声がももこ達にクラスの列へ戻れと呼びかける、その後ろ手では洋の賑やかな友人達が彼の名前を呼んでいる。
「俺クラスのとこ戻るわな、またな。」
そう彼が肩先を向けると、ももこがねえ、とそれを阻む。
「私、洋くんの夕焼けの写真が凄く好きなんだ。今でも目に焼き付いて離れないくらい。洋くんの写真が大好きなんだ。」
最後に目にした洋の写真、今でも瞼に焼き付いている、お世辞ではなく衝動だ。
踵を返した爪先のまま、洋がももこを振り返る。
「なんの話?」
なんでもない様な声だったが、確かにそこには昔の様な気配が滲んでいる。
「一体いつの話だよ。」
「そんなに前じゃないよ、だって私が中二の時だよ。」
「よく覚えてんなあ。」
予想もしないももこの言葉に洋からは僅かに緊張が見受けられる。
それは洋すらも記憶の彼方に手放してしまった事。
「ねえ、あんな風に写真撮れるのにどうして止めたとか言うの?」
なんで、と問うももこから目を逸らす事なく洋は息をつく、首の裏を沿わせた左手の平で二・三撫でた。
そして少しだけ考え込んでから、息をひとつ。
「止めた理由なんて覚えてないよ。高校に上がって暫くして、何か色んな事があって。中学の時より遊ぶ範囲も広がって、彼女も出来たりしたし、色々。色々あるんだわ、俺も。」
だからカメラ止めてちゃんと大学も行こうと思ってんの、と笑う洋はついさっきまでとは別人の様に淀みない口調で眼差しでももこを見ている。
「色々って、ていうか洋くん彼女いたんだね。」
いないはずはないと思っていても、いざそれを耳にしてしまうと想いは口をついて出てきてしまうものだ。
特に、ももこはそうなのだ。
「そりゃあね、彼女の一人や二人。思春期ですものね。でも今はフリーよ。どう、俺?」
「どうって、何がさ。」
「まあ、まるこがもし恋人募集中なら俺も候補に混ぜてって意味。」
昔とは違う馴れ馴れしさで、ももこの双眸を見つめている。
そこに僅かな性差も含みながら。
「やだよ、洋くんはそいうんじゃないもん。」
「そう?俺は、お前でも全然イケる。」
何だ、その言い草。
記憶の向こうにいる洋はいつだって大人びていて、いつだって生意気そうな瞳をしていた。
ひょっとすると、あの頃の彼といえば四六時中レンズを覗いていたし、ももこはその横顔ばかりを眺めていたせいかもしれない。
今こうして真正面から向き合っているからこそ気づけたのか、それは彼がカメラを置いたからなのか。
ももこの俊巡はそこで止まる。
再び洋が友人達に呼ばれて背を向けたのは、そのすぐ直後。
去り際に、あ、と何かを思い出してまるこ!と呼んだ。
「お前ね、あの写真。」
「なに?」
「夕焼けじゃねえよ、あれ。ライジング・サン。」
「え?」
「朝陽。」
朝陽。
「好きな癖に間違ってんなよ。」
その声の先、茶化さない眼差しがより一層早鐘を打たせ、それはもうどうしようもない程に鬱陶しかった。
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