さよならseptember


これは喪失じゃない、悲劇でもない。

若い若い愛情の、一つのエピローグ。



シャッターを切る指が、 誇らしげに首にかかっていたライカが、 きみを嫌というほど思い出させる。

もしも今の私が、あの頃きみがその目でレンズ越しに覗いてた世界を知りたいと言ったらきみは笑うだろうか。


その日の朝、私の目に飛び込んで来たのはまっさらに卸した夏服。

それを見てああまた夏が来た、と実感するのだ。

昨日までの中間服はすっかり鳴りを潜めて今日からは私の出番だ、と言わんばかりの存在感を放っているように見えた。


「まるこ、早く起きなさい。お姉ちゃんはもう家出たわよ。」

そんな母の声は日常茶飯事だった。

鼻を掠める味噌汁の匂いも、夏の朝日に焼け付く畳の感触も当時の私には日常の朝だった。


さくらももこ。

18歳になった今でもなかなか布団から起き上がれない子供だった。

張りつきそうな瞼をやっとのことこじ開けると、時計は7時25分を過ぎていた。

この時間だと朝ご飯は確実に諦めなくてはいけない。

覚めきれていない頭ですぐさま洗面所に向かい顔を洗う。

窓から差し込む陽射しが今日もうだるような暑さということを知らせていた。

憂鬱な初夏の風を受けながらだらだらと着替えを済ませて、台所にあったスナックパンを頬張りながら玄関をくぐった。

背中の向こうで行儀が悪いと怒鳴られても、私にはちっとも効かない。


日差しが照り返すアスファルトに目を細めて、バス停までの道を夢中で歩く。

五分と経たない内に汗の滲む通学路、季節が変わったことを思い知らされる。

県道沿いの大通りの商店街が開店の準備を始めた。

本屋に平積みされた新刊、その一つに貼りついた写真を横目に捉える。

深いブルーの装丁がやけに気になった。

時間がないのも忘れてそれを手に取って表紙を捲る。

小さく書かれた表紙の写真家、その名前が妙に懐かしかった。


“彼”と出会ったのは、そう私が小三の五月。

少しだけ年上の、だけど威張らない口元、逆に被ったキャップ、その首には小学生には不釣り合いのゴツゴツのカメラ、一丁前にファインダーを覗く横顔。

彼の部屋一面に貼られた写真の美しさに子供ながらに胸を打たれた。

気が付けば、背の高い草を掻き分けてあの背中を追いかけていた。

「ひろしくん。」

その名前を呟けばいつだってきみに会える、そんな気すらしていた。


高校に上がる頃、私は初めての恋人が出来た。

小学生の頃からの同級生で中・高も一緒になった (とは言っても、大概は持ち上がる。)。

サッカー部のエースで秀才で、入学式早々から上級生から噂の的だった。

そんな彼は私を好きになり、私も彼を好きになった。

「よう、超噂の人物じゃん。」

「ひろしくん。」

移動教室の廊下でひろしくんはからかってくる。

「あいつ確か転校したやつだよな、大野だったけ?」

「中学んときに戻って来たんだよ。」

「男前だよなあ。」

そういうひろしくんこそ、私の同級生の間では噂の上級生だ。

運動神経抜群でトップで、だけどカメラ小僧、その

ギャップが堪らないんだって。

「あ、これやるわ。」

そう言ってくれたフォトグラフには、砂煙の中シュートを決めた瞬間の彼が切り取られていた。

「格好い。」

「カメラマンの腕がいいからな。」

「被写体がいいからよ。」

「取り上げるぞ。」

その時もらった写真は写ってた彼も、それを焼き付けたきみも私にとってかけがえのない宝物だった。

だからどうしても傍にいてほしくて、そう言ってはきみを困らせてしまったんだ。


ひろしくんは三年生で私は一年生、共有した時間は本当に一瞬だ。

三年生は一学期が終わるとすぐに受験モードに突入して、下級生とは全く相容れない所にいた。

そんな中、相も変わらずシャッターを切るひろしくんの進路が私は気になっていた。

「俺大学いかねえもん。」

「ひろしくんは頭いいのに?」

「よくねえよ。」

「じゃあどうすんのさ。」

「俺ね、メキシコ行くんだよ。」


メキシコ。

その日の地理の時間、関東平野についての説明そっちのけで巻末の世界図を眺めた。

赤道が抜ける南半球は、日本とは真逆な国。

そんな所に来年の春、ひろしくんは行ってしまう。

「何で、メキシコなの?」

放課後の陽の傾く廊下で、大野くんの部活を待ちながら私はひろしくんに尋ねた。

少しだけ目を丸くして、ひろしくんは笑った。

「去年のコンクールで俺金賞獲ってさ。そん時の審査員にいたカメラマンが自分のメキシコのスタジオ手伝わないか、って声かけてくれたんだよ。」

その賞は私も知っていた、朝刊の見開きにひろしくんの写真が載っていた。

驚きと喜びで私は家中自慢して回った。

「本当は声がかかった時点で高校辞めて向こう行くつもだったんだ。でもやっぱり食えるか分からない世界に飛び込むんだし高校くらいは出ろって、親とは卒業を条件に話つけたんだ。」

「もし、じゃあ去年メキシコ行ってたら。まるこがこの高校入ってもひろしくんはいなかったんだ。」

「あ、本当だな。辞めねえでよかったわ。」

「メキシコは遠いよ。赤道の近くなんだよ、暑いし。」

「らしいな。俺、真っ黒に焼けてくるわ。」

「ご飯も違うし、言葉なんて全く通じないんだよ。」

「生活してたら日常会話くらいは身につくといいな。」

「ひろしくん、」

「何だよまるこ、俺に行くなって言ってんの?」

そう彼は少しだけ眉尻を下げて、だけど心底嬉しそうに微笑んだから、私は息が詰まりそうなほど、顔が熱かった。

「ありがとな。でも俺の実家はここだし何年かに一度は帰ってくるよ。」

「でも、何年か後にはまるこがここにはいないよ。」

「戻ったら連絡するよ。」

だから、とそう言ってひろしくんはカメラを構えた。

「笑ってろよ。」

シャッター音が響いた。


「うわ、今のまるこ絶対ブスに写ったぜ。」

「ひろしくんひどい!」


ああ、ひろしくん。

けたけたと笑うきみの夢を、私はどうして手放しで応援してあげられなかったんだろうか。

あんな我儘な私を、きみはずっと大切に仕舞っていてくれたのに。


***


夏休みまではあっという間で気が付けば始業式の体育館にいた。

休み明けにテストの話は気だるかったが、ひと月以上会えなかったクラスメイトとの再会に校長先生の話そっちのけでお喋りに夢中になっていた。

高一の夏休みは、自分でも驚くくらい印象的なものになった。

家族や友達以外と過ごしたのも初めてだったし、キスして抱きしめて、誰かの肌に触れたのも初めてだった。

私は、ますます大野くんが愛しかった。

大野くんが笑うと胸が潰れるくらい痛くて、見つめられると眩暈すら覚えた。

自分以外の誰かのために元気でいたい、そんな気持ち知らなかった。


教室に移動する人波の中、ひろしくんを見つけた。

休みの間中写真を撮っていたんだろう、受験生の中で唯一いい色に焼けていた。

メキシコ行きの話をして以来、何だかひろしくんと交わす会話がぎこちなくなってしまったような気がしていた。

小さい子供みたいに駄々をこねた自分が恥ずかしくてひろしくんと顔を合わせるのが気まずかったし、まだ笑ってメキシコの話に触れられる自信がなかった。

だから声もかけられずただただ、その背中が見えなくなるのを眺めていた。

教室に戻ると担任は夏休みの課題を提出するようにと言った。

斜め後ろで、はまじが呻いている。

「んだよさくら、余裕顔しやがって。」

全教科提出していた私を見てはまじは八つ当たり混じりに口を尖らせた。

いつもなら私も間違いなくはまじ側だったが、今年は違う。

「はまじとは違うんです。」

「大野だろ?」

「内緒。」

知ってるんだぜ、と言わんばかりの視線を無視して私は教室を出た。

吹き抜けの渡り廊下から三年生の教室が見えた。

一際賑やかな教室があった、割れんばかりの拍手の響く教室。

特に気にも留めなかったが何となくその場から動けなかった。

不思議な違和感の中、今度はその教室からひろしくんが出て来た次の瞬間、私は弾かれた様に駆け出していた。

両手いっぱいの花束を抱えて、クラスメイトに囲まれて笑っている彼が見えた。

もうじき、衣替えの季節になり夏服はたんすの奥に仕舞われる。

少しだけ陽も短くなった九月、彼は本当に遠い所へ一人、旅に出てしまった。


ひろしくんが、メキシコに行ってしまった。

全日制から通信制に切り替えて、あれからひと月待たずにひろしくんは写真を撮り続けるために。

私は今朝手にした新刊を開いた。

表紙写真家の名前にひろしくんの名前が添えてあった。

深い青はメキシコの空、赤い土はメキシコの大地、これを撮ったのはひろしくん。

ひろしくんが日本を飛び立って一年と十ヶ月。


きみの非凡な才能は、一体どこまで私を驚かせるんだろう。


***


私は高校三年生になった。

親や友達からはよく進級出来たな、とからかわれたが微塵にも気にならないかった。

変わらず私は大野くんが好きで、大野くんも私を好いている。

下級生からもやっぱり一目置かれたカップルになっていた。

だけど、それさえ気にならない。

ただふと思うのは、南半球にいる彼が元気でいるのか、それが気がかりだった。


ひろしくんからは何の便りもないまま、高校を卒業して八年が過ぎた。

私は東京の小さなデザイン会社に勤めて、毎日机と睨み合っていたし、大野くんは営業成績も上々で忙しなく働いている。

三年前から二人で借りているマンションは、もうすぐ引っ越すことになっている。

少し手狭になってきたのと、新しく二人で始めるために丁度いいからと3LDKのマンションを決めたばかりだ。

私の左手にはスクエアのティファニーと、小さな石の付いたシルバーリングがはまっている。

少しずつ大人になりだらしのなかった私は大野くんの奥さんになる。

幸せで満たされた毎日の中、それでもどうしてもきみを思い出す。

例えば本屋の前を通り過ぎたとき、例えばデジカメで表参道の人波を収めた瞬間、例えばタコスを頬張った夜に。

九年間、ただの一度も連絡をくれない薄情な彼を思い出す。

ひろしくんの名前は写真の雑誌にほぼ毎月載っていた。

時折、向こうでは個展も開いているみたいで新聞にもその名前を見つけることができた。

だけどそれも去年からぱたりと止み、本当にきみがどうしているのか知ることが出来なかくなってしまった。


「お昼行って来ます。」

事務所の休憩室で買って来たフラペチーノを啜りながら、昼過ぎのワイドショーを流していた。

芸能ニュースのチェックは欠かせないと、片手間で見ていた画面の上にニュース速報を知らせるプロットが現れた。

すぐに番組は報道特番に切り替わり、海外でのテロで日本人に数名死者が出たことを知らせていた。

美人キャスターが沈痛な面持ちでメキシコだと告げた。


今まで薄らぼやけていた輪郭がはっきりと形を取り戻した瞬間、彼の名前を聞いてしまった気がした。


***


昼休みがあっという間に終わり、席に戻ると私は手帳を取出して高校の時ひろしくんがくれた大野くんの写真を眺めた。

あの日から、肌身離さず持ち歩いている写真。

角の取れかけたそれを穴が空くほど眺めた。


それからそつなく仕事を済ませると、定時上がりで真っ直ぐ家へ帰った。

大野くんから三回着信があったけど、掛け直さないまま二人分の夕飯を作った。

向かい合わせに食器を並べ箸を置くと自分の定位置に腰掛けた。


昼間のニュースを思い出す。

あのキャスターはひろしくんの名前を読み上げていたけれど、まだそうだと決まった訳じゃない。

たまたまメキシコで、同姓同名だという可能性は多いにある。

テレビも何も点けてない部屋には秒針が刻む音だけがひどく響く。

しばらくすると玄関を開ける音と、私の名前を呼ぶ大野くんの声が聞こえた。

彼らしくない落ち着かない足音と声だった。

「おかえり。」

私はいつもそうするように大野くんを迎えた。

「帰ってたんだ。」

「定時で上がれたんだ。」

「ニュース見たろ。あの先輩、」

「ひろしくんて決まったわけじゃないじゃん。酷いよ。大野くんはじゃあそれがひろしくんだって言うの?メキシコで死んだのはひろしくんだって。」  

「そうじゃないだろ。」

聴きたくない、誰がそんな酷いことを言うのだ。

彼が1人、あんな遠い所で死んだなんて誰が信じられるというのか。

痛いくらいに、大野くんに両腕を掴まれた。

気がついたら彼の腕の中、目の端からみるみる視界がぼやけて、大野くんの顔が見えない。


ひろしくん、私はきみを許さない。

九年間も放ったらかしで、息災さえ知らせてくれなかったのに。

今更こんな報せを寄越すなんて、どこまで薄情。

ああ、ひろしくん。

私は、きみを許さない。


それから二日して、その邦人の遺品に私の写真があった事を聞いた。

あの時の、あの放課後の、初めて彼の進路を聞いたあの日に撮られた私だった。

泣いた、とにかく泣いて、泣いて。

わんわん泣いて涙も枯れるほど泣いたら朝が来た。

ひろしくんのお葬式には、結局参列しなかった。

大野くんは最後まで私を引っ張り出そうとあれやこれやと手を打ったけど、自分でも驚くくらい頑なに拒んでしまった。

無理矢理喪服を着せられて引きずられる勢いで家を出ようとしたけど、玄関に立つ度に嘔吐する私を大野くんはそれ以上何も言わずただ抱き締めた。


「俺行ってくるけど何かあったら電話して、絶対に。」

それだけ言うと、大野くんは静岡に帰って行った。

何かって何だ、彼の後を追う?

そんなことするはずない、私は今でもこんなにも大野くんを想っているんだから。

だけど、それとは全く別の所で大きな穴が空いている。

そこがひろしくんを思い出す度に、ひゅうひゅう音を立てている。

携帯の着信音に目を向けると、母からの電話を知らせていた。

出ようか出まいか迷いながら通話を押した。

「お母さん?」

「まるこ?大野くんから聞いたよ、あんた帰ってこないの?」

「うん。」

「いいの?きちんと見送らなくて。」

「大丈夫、まるこはここでひろしくんを見送りたい。」

「そう。あんた宛にね、何か沢山手紙が来たの。お母さんよくわからないからとりあえず速達でそっちに全部送ったから。今日には届いてるはずだからポスト覗いてみてね。」

うん、うんと頷きながら私の身のない返事に最後までお母さんは心配そうだった、申し訳なくて溜め息が出た。


「そうだ、ポスト。」

せめて言い付けどおりにしよう、とサンダルをつっかけてよろよろと下に降りた。

ポストのロックを回し開けると、確かに茶封筒が一つ速達で着いていた。

表には見慣れた文字で私の名前が書かれてある。


妙にかさばるそれを眺めながら部屋に戻り封を切ると、中からはまた封筒が出てきた。

だけどそれは一つじゃなく、全部同じ形をした物が八通。

エアメイルだった。

宛名は私、差出人は彼。

どこかに空いた穴が、ひゅうひゅう音を立てた。




***


まるこ へ。

メキシコに着いた。

結局卒業待てなかった。

でも通信制に切り替えたから高卒にはなるらしい。

こっちの世界に飛び込むのはやっぱり今しかない。

まるこお前めちゃくちゃ怒ってるだろ?

ひろしくんウソつきバカおたんこナス!って。

騙すみたいになっちまったもんな。

ごめんな。

メキシコ上陸一番に俺が見た空送るから、これでチャラにしてくれ。


***


さくら ももこ 様。

俺、メキシコ生活慣れてきました。

お前進級できたのか?

俺の気がかりはそれです。

毎日スタジオとマンションの往復で吐くほどカメラに触ってるけど、ちっとも苦痛じゃないんだ。

めちゃくちゃ怒られたり仕事では全然ファインダー覗いたりしてないけど。

休憩中は勝手に撮りまくってるや。

メキシコの夜は賑やかです。

清水とは全く違うな。

当たり前か。

今日も遠くに銃声を聞きました。

俺は今日も元気です。

***

まるこ 様。

元気?

卒業おめでとう。

て、言っていんだよな?

まさか高校四年生……はないよなあ。

ありえんありえん。

進路決まった?

大学?

短大?

それとも専門?

就職?

…疑問系ばっかり。

とにかくまるこの新たな門出を祝うため、俺は乾杯します。

おめでとう。

あいつとまだ続いてんの?

?ばっかだな。


***


まるこ!

聞いて驚け!!

個展が決まった!

こっち限定の本当に小さな駆け出しカメラマンの協賛だけど、とにかく個展だ!

日本の新聞社の現地記者も取材に来るらしい。

お前朝刊欠かさずチェックしとけよ!

絶対だぞ!!

同封したやつは個展で3メートル引き伸ばしパネルで展示するやつ。


***


ももこ へ。

………お前、ももこって名前なのな。

今気付いた。

一年に一回こうやって思い出してはお前に手紙書いてるけど。

俺やっぱ文才ないわ。

言いたいことがまとまんねえ。

ただ言えるのは、、、

メキシコ万歳!

カメラ最高!

今はそう言えない。

しんどい。

水不味い。

むかつく。

日本帰りたい。

まるこに会いたい。

まるこ、これ読んだらソッコー燃やして。


***


まるこ。


今日のメキシコの夕焼けはピンク色でした。

桃色です。

きれいだろ?

おまえ今どこ住んでんの?

カメラの師匠が今日言ってました。

「ひろし俺の娘と結婚しろ。」

俺は言いました。

「嫌です。いくら師匠の頼みでも聞けないっす。」

超気まずかったし。

……まるこ、お前俺を差し置いて結婚とかしてないよな。

んなことしたら生意気だぞ。

絶交だな。


***


まるこ さん。


元気してる?

早いなメキシコで暮らし初めて七年経つ。

去年は仕事で日本帰ったけど、日本は変わらないな。

安心する。

まることも七年会ってないんだな。

お前いくつなったよ?

ちゃんと働いてんのか。

まるこ相変わらず絵描いてるか?

諦めんなよ。

お前の唯一の才能だぞ。

俺は最近スランプってやつらしい。

何見てもファインダーに収めきれない。

もうすぐでかい個展控えてんのに、全然だめ。

ああーニホン帰りてー!


***


まるこ。


決めました。

俺、来年日本に帰国します。

色々考えた。

メキシコでのこの八年、色んな経験さしてもらえたし日本にいたんじゃ撮れない写真も山ほど撮れた。

だから今度は日本で向き合ってみるわ。

東京のスタジオに声かけてもらえたし。

日本帰ったら連絡くれよ。俺の携帯これな。

まだ繋がらないぞ。

来年からだぞ。


***



ひろしくんから届いたエアメイルは、一年に一通書かれたものだった。

短くて断片的で手紙というよりメモに近かいそれは、だけど当時の彼の気持ちが手に取るように伝わってきた。


私は、読むたびに嘔吐した。

昨夜から一切口にしていないというのに、むせかるほど苦しくなった。

それでも繰り返し繰り返し何度も読んだ。

始めの一回目はただ涙で文字を追うのがやっとだった。

二回目は内容を少しずつ理解して、三回目でまた泣けてきた。

人間の目からはこんなにも水分が溢れてくるんだ、と冷静になるほど泣いた。

悲しいとか淋しいとか、既存の感情で表せない気持ちが後から後から溢れた。

ひとしきり泣き止む頃には目も頭も鼻も心臓も痛くて、呼吸も嗚咽にしか聞こえない様になっていた。


ベランダから見える空はすっかり陽が落ちた後だった。

高層ビルの明かりにネオン、線路を軋ませ走る環状線、どこからか漂うシチューの匂い。

何も変わらない、いつもの夕闇。

何も変わらない、きみがいない。

ベランダのガラスに映る自分と目が合った。

とてつもなくひどい顔だった。


携帯の着信が空っぽの空気を震わせた、大野くんの名前が表示されている。

「さくら、終わった。」

大野くんの声も、どことなく涙混じりに擦れていた。

「お疲れさま。」

「すげえ人だったわ。何か本当に、すごい人だったんだなあの人。ちょっとびっくりした。」

「そうだよ、ひろしくんだもん。」

「あの人がさずっと持ってたっていうさくらの写真、俺見たよ。」

「ぶっさいくだったでしょ?」

「うん、妬けるくらい不細工だった。」

「何それ。大野くん、ねえひろしくんはさ悔やんでないかな?」

「どうして?」

「こんな、こんなに若いのにまだまだこれから沢山写真を撮らなきゃいけない人だったんだよ?それなのに急に、あんな風にいなくなった。」

日本にいたら、きっとまだきみはこの世界をその目に映してた。

まだ空は綺麗だとか花が満開だとか、ファインダーばかり覗いてるんだ。

「あの人が無念だったかなんて分からない。けど、さくら。あの人が撮った何百何千ていう写真見たことあるか?あれにはちっとも後悔なんて写ってない。」

大野くんはきっぱりと言い切った。

その潔さにまた胸が熱くなった。

「さくら、あの人は最後のその瞬間までカメラを握ってた。」

爆破されたひろしくんの乗ったバスは、跡形も無かったという。

身元確認出来ない遺体がほとんどの中、彼だけは本当に綺麗なままやっぱり自慢のライカを抱き締めていたらしい、と大野くんは言った。

「今から新幹線乗る。九時までにはそっちに着くから。」

「うん。」

「さくら。頼むから、俺はちゃんと帰るから一人で泣かないでよ。」

「もう大丈夫だよ、ごめんね、ありがとう。気を付けて必ず帰ってきて。」

閉じ忘れたベランダから生温い、だけど湿度の足りない風が吹き込んだ。


ひろしくん。

私はこんな風に何かを亡くしたことなんてなかったから、きみを憎みさえした。

捌け口すら見つけられずこんな煮え湯を飲まされる思いをするくらいなら、いっそきみの存在を消してしまおう、そう思った。

だけど私は憎しみでも断片でも、きみを思い出さないなんて無理なんだ。

ああ、きみ。

私はきみを忘れたりなんてできっこない。


あれから幾つもの夜が来て朝が来て私はほんの少しだけ、だけど確実に涙を流す回数が減っていった。

四十九日でやっと静岡に帰った私に、お母さんは何も言わずいつもの帰省のようにあれやこれやと世話を焼いてくれた。

実家の周り、垣根、神社の境内、河原の草藪、巴川の土手、そのどれもがひろしくんを思い出させる景色で体の底が酷く痛んだ。


それでも口びるを噛んで、ひろしくんの墓前に足を運んだ。

ひろしくんが眠るそこは市内の高台にある見晴らしのいい霊園だった。

まだほとんど手付かずの土地に、真新しい墓標が佇んでいる。

花は枯れることなく綺麗に生けてあって、線香も絶えず供えてあった。

私も誰かがそうしたように花と線香を供えて両手を合わせた。

遠く遠く秋の晴れた空の向こうに富士山が見える。

いつもあんなに近く見えていた気がしていたのに、あんなに遠かったんだ。

「遅くなってごめんね、ひろしくん。」

私はまだ、整理すら着いてない。

「怒んないでよ。急だったひろしくんだって悪いんだから。」

もう憎いなんて思ってないけれど。

「だけど嫌んなったよ。ひろしくんみたいに誰かがいなくなったら、またこんな思いしなきゃいけないのかなって思ったら。心底嫌んなった。」

本当は私が消えたくなった。


乾いた温い風が頬を撫でた。

その時気付いたのは、墓石に挟まった白い封筒。

風で飛ばないように敢えてそこに挟んだ様にも見えた。

それに恐々、手を伸ばす。

よく見ると見覚えがある封筒にやっぱり見覚えがある文字が綴られていた。

私はためらうことなくその封を切った。

恐らくこれは、私に宛てられたものだ。

本当に最後のひろしくんからの手紙だ、緊張と高揚が入り交じる。

中に入っていたのは1枚の写真、夕焼けの中困ったようにぎこちなく笑う、今にも泣き出しそうな制服を着た私だった。


ひろしくん、ひろしくん、ひろしくん。

何遍呼んだって応えてくれない、薄情で大好きなきみ。

ごめんね、私だけが淋しいみたいに思い上がって。

ごめんね、私だけがきみを特別だと思ってるみたいに振る舞って。


きみだって一緒だったんだ、いつだって痛いほど私を想ってくれてたのはきみだった。

こんなに胸が張り裂けそうな九月の空は初めてだった。

私はきっと、陽が短くなるたび空が澄み渡るたび、鰯雲を見つけるたびにきみとのさよならを思い出す。

最後に涙を一筋だけ落としてからひろしくんの前で泣くのはこれっきりにしよう、そう決めたときの空はどこまでも遠く透き通っていた。

そして涙を乾かした風が過ぎると。

笑えよ、まるこ


そう聞こえた気がした。


***


まるこ へ。


今日日本に荷物を送りました。

十年近くメキシコに住んでたのに、段ボールは大きいのが二つ、中くらいが三つしかありませんでした。

そんな自分にドン引きでした。

俺がメキシコに行くとき、今にも泣き出しそうだったまるこが大好きでした。

多分。

まるこが結婚しても、子供が生まれてもあの時のまるこの写真は一生の宝物です。

見ろよ、いい写真だろ?

さすがひろしくんって笑えよ?

そしたら今度はあいつと二人並んだ写真撮ってやるよ。

だからまるこ、ずっとずっと笑ってろよ。



HUG HUG HUG

『ちびまる子ちゃん』の二次創作テキストサイトです。 大まるが主に好き。 一次創作(オリジナル)や『ごくせん(慎くみ)』も一部あります。 あくまで個人の趣味のサイトのため、原作者様・関係者様には一切関係ございません。 ここを見つけてくれた方が、楽しい瞬間を過ごしてくれたら幸いです。 いつも変わらない愛を、ありがとうございます。 motoi/☆★☆

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