なんて素敵な季節。
すきもあいしてるも、全てきみとしたかった。
夕涼みをするには晩の冷え込みが厳しくなった今日この頃。
中間服のシャツだけでは何だか心許なくてベストに頼ってみたり、肘をさすってみたりし始める。
窓ガラスの向こうに朝が訪れるのも俄(にわ)かに緩やかになり、部屋に射し込む景色は木葉を纏い始める。
昨日、渡り廊下に見た彼女の隣には彼がいた。
寄り添う訳でも腕を組むでもない、ただ一定の距離感を保つ彼らをやっぱり決まった立ち位置で僕は見ていた。
ふと彼女はこちらに視線を寄越して、「花輪くん。」と笑った。
その時に僕を見つけた瞳が丸く開いた事だとか、そしてそれが弧を描いた事全てを逃さぬ様焼き付けた。
その隣にいた彼もこちらに向き直り僅かに笑んだ様に見えたが、普段仏頂面な彼の事で確証はない。
「花輪くん次、移動教室なんだ?」
踊り場に響く声に頷いて肯定を示すと、再びやけに通る声が「いってらっしゃい。」と跳ね返った。
「さくら声でけえよ。」
昔から彼女を知る浜崎くんは、そんな一部始終を眺めては呆れていた。
僕はそんな彼女の背中が、廊下の廂(ひさし)の向こうに消えるまでそこを動けずにいた。
そうだ、僕はもう暫くの間このままなのだ。
彼女を好きになったきっかけなんて、覚えていない。
ただ気が付けば目に映る全てに彼女がいて、その周りを縁取る景色が眩しくなったのだ。
恋に落ちるとはそんなものだ、と昔読んだフランス文学は豪語していたが、読むのと実際自分の身に降り掛かるのとでは全くもって訳が違っていた。
こんなにも苦しくて歯痒いものを、然(さ)も良い事づくめに羅列させるんだから作家というのは本当に恐ろしい。
僕の大好きな彼女は狡い。
彼という心に決めた相手がいても尚、変わらず僕にも微笑み返す。
なんて狡くて、なんて大好きなきみ。
それから辺りの景色が白く染まり季節が移ろい、そんな気持ちときみにさよならをしようと決めたのは、そのすぐのこと。
春めいた陽気の中で僕は精一杯の強がりと見栄を持って、高校を卒業したら留学しようと思う旨を告げた。
その時の彼女の顔と来たら、あんな顔をするから皆誤解するし僕は期待してしまうのだ。
涙を堪えた瞳だとか固くつぐんだ唇に、尚まだ密かに想いを寄せる馬鹿な僕。
それでも、僕は男だから決して泣いたりはしないけれど。
あのさよならを決めた日から月日が流れて彼女が彼の妻になりそして、母親になったと風の便りで耳にした。
初恋が実らない理由なんて考えても仕方がないが、彼女を想うと古い記憶が少しだけ傷んでしくしくと声をあげた。
人は実らない物を時折取り出して眺めて、当時を思い苦笑いしたりしてみるのだ。
僕は、特にそう。
あの肌寒い秋の淡い記憶や彼女が笑っていた麗かな日射しに思いを馳せる。
どうか一生を掛けて彼女に幸福が降りますように、と今は遥かオーストリアのミントブルーの空に祈る。
「さよなら、フェアリーテイル。」
これが格好つけたがりの僕が送った最初で最後の愛の告白。
そしてやっぱり彼女が気まずそうに、だけど涙が溢れるくらいの笑顔を見せたから。
僕はその記憶を宝物の様にいつまでも抱き締めるんだ。
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