泣かないでよと、呆れたように笑うあなたのこと。
教室の天井には今にも抜け落ちてしまいそうな扇風機が四台、時々油の足りないブリキみたいにいびつな音を立てながら辛うじてその首を降っていた。
まだ7月も初旬だというのに室内はすでに亜熱帯の様相だ。
真夏日を観測したのは水曜日、なるほどそれなら頷ける。
まだ昼前の教室には既に集中力など微塵もない、こんな状況でも特に咎められはしなかった。
教師だって同じ人間ということらしい。
渡り廊下の向こうに体操服姿の生徒が数名、やはり気だるそうに歩いて行く。
腰までずったジャージかやたらとだらしない、だけどこの限られた狭い社会ではそれもオシャレに映るんだろう・と、そんなことをぼんやり考えた。
ノートと教科書もそれこそとりあえず広げてはみたものの開始から三十分、そこに文字が書かれることはない。
「この口語訳、さくら。」
授業中のよそ見はとことんろくなことなどない。
そんなことはもう何年も前に自覚したのに、相も変わらず同じ事をぐるぐる繰り返している。
「昔男有りけり、から。」
教師とはとんとずるい、咎めはしないがこうして時折無理矢理首根っこを掴んで現実へ引き戻すのだ。
先週から始まった伊勢物語も未だに咀嚼(そしゃく)出来ずにいる。
温い教室、一つも汲み取れない先人の言葉。
そしてやっぱり広げたノートに文字が綴られることはない。
ああ、焦燥感。
私にはどうしても分からないことがあった。
それは幼馴染みのみぎわさんが未だに花輪くんに告白出来ていないこと。
彼女の気持ちはそれはもう手に取るように単純明快で(彼女の物語にきっと口語訳なんて必要ない)、それにつけてもう何年も熱烈に花輪くんに恋している。
勿論、花輪くんがそれを受けとる事がないにせよ一体それをいつまで繰り返すのだろう・なんて時折考えた。
「そんなことさくらさんには関係ないでしょ。」
余計なお世話よ!と声も荒げに突っ返される。
まあ、それもそうなのだ。
ちょっとした出来心、そこまで本音は言えないのだが、だけど辛く無いわけが無いと思う。
花輪くんはモテるから、いつだって女の子から熱い眼差しを向けられてるし、例えこちらを向いてくれないからとはいえ好きな人がそんな渦中だなんて。
私ならきっと、辛くて辛くて耐えられない。
それなら全てをぶちまけて終わりにした、そうすればいっそすっきりするだろうに。
だけどそんなみぎわさんの横顔は、ひどく大人びていて私は思わず俯いてしまった。
分からないことがもうひとつ。
近頃時折思い出す、彼のこと。
彼とは小学生の頃転校していった、大野くんのこと。
当時を振り返っても私と彼は特別仲が良かった訳でもなく、悪くもなく、つまりはただのクラスメイト。
そんな彼を思い出す、真夏の教室に彼の気配を探している。
こないだは彼の声に良く似た先輩に白昼夢を見たりした。
小学生以来、全く会っていないわけではない。
中学三年の冬にこちらへ戻って来ていた大野くんに出くわした。
暫く見ない内に、彼の上背はすっかり伸びて声も太くそれは逞しくなっていた。
黒目がちの勝ち気な眼差しに僅かな面影を射して、久しぶり・なんて社交辞令を交わしたんだっけ。
その時まだ買ってもらったばかりの携帯に 大野くんのアドレスを飛ばしてもらったけど、これも成り行き。
あれから一度もメールを送っていない。
そんな彼を思い出すのだ。
「そういえば。今年大野帰ってくるけど、さくら一緒に遊ぶ?」
そんな風に思い付きで話す杉山くんは、半年前から私の親友と付き合っている。
「何で、突然。」
「いや、たまには。したら穂波も来るかなって。」
「大野くん久しぶりなんだし、ふたりで遊べば。」
「でもあいつ、今年十日くらいこっちにいるみたいだし、せっかくならさ。さくらとか暇な奴も呼んでやろうかって。」
「ねえ、暇な奴って。」
事実だろ、と杉山くんは私をあしらい着々とスケジュールを埋めていた。
そうだ、大野くんを思い出すのは彼のせいだ。
こうやって忘れた頃に大野くんの事を話して来る。
だから、直接連絡を取っていないのに大野くんが向こうでサッカー部で背番号は七番で、電車通学で修学旅行には北海道に行った事を、私はうすぼんやり知っているのだ。
更に言えばその修学旅行で告白されたクラスメイトと付き合い始めたそう。
なるほど、道理で。
道理で彼を思い出す訳だ。
温い教室で、彼の姿を夢に見て息を忘れる訳だ。
私は彼に会いたいんだと思う。
この体と心が足並み揃わない、そう今日みたいな日は特に彼の顔を見て、同時に彼と並んで歩きたい・なんて。
そんな夢を見る。
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
口語訳しろ、と指名する教師。
温い教室、先人の綴った言葉はやっぱりひとつも分からない。
窓の向こうには薄く溶けた月が浮かんでいる。
空の青が眩しくてその輪郭は本当に頼りない。
満月には足りない、ぼけて欠けた月。
そうこうする内に窓の外はみるみる滲んで月さえも見えなくなった。
私は、それはもう目一杯奥歯を噛み締めて、ただじっと瞼の向こうに広がる焦燥感を押し込めた。
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