あのころ。

あのころ、私がまだ。
思い出す、ちぎれた雲に真っ青な空、微熱のきみに握った掌。
すべてを思い出す。

「付き合おうか、俺達。」

待っていた言葉は、私には降らなかった。
夏休みが来て、学校の中は静まり返っていた。
ひんやり冷たい廊下には、賑やかな足音はなくて、真昼の陽射しが照り返していた。
芸術棟で一人、スケッチブックの整理に追われている私。
空調の悪い美術室で、不揃いのスケッチブックを積みながら顎につたった汗を拭った。
陽に焼けて、褪せた表紙のスケッチブック。
針がねのスプリングが前を向くように、引き出しては並べるを繰り返した。
「た!」
ひしゃげたスプリングの切れ端を掠った指には、ぽつりと血の海が生まれてしまった。
「あーあ。やっちゃった。」
舐めときゃ治るか、と私はその指を口に運んだ。
だけど、しばらくなかなか引かない血の粒に見兼ねて、私はしぶしぶ水道に向かった。
混合物混じりのカラフルなコンクリートでできた芸術棟の水道が私は好きだった。
固い蛇口を捻ると、勢いよく噴き出した水に腕ごと突っ込むと、どうしようもなく気持ちよくてため息が出る。

「なにやってんだろ、私。」
夏休みなのに蒸し暑い教室に一人こもって。
こじつけの部活動をして。
それでも家に一人でいるよりはましだった。
正面に見える校庭では、練習を終えたサッカー部がストレッチをしている。
「暑い中よくやるねえ。」
私は一人、呟いた。
手前で背中を押さえてもらいながらストレッチする子に、私は目をこらした。
数いる部員の中でどこにいてもすぐに見つけられる。
「大野くん、だ。」
背中を押さえてるのは、やっぱり杉山くん。
変わらない光景から目が離せなかった。
小学校からの同級生の二人は、歳を重ねるにつれてやんちゃなガキ大将から逞しい頼れる男の子に成長していた。
高校に入学すると、たいていの子は二人の虜になった。
そんな二人を敬遠していた私に、大野くんも杉山くんも変わらず接してくれた。
私は、すれ違う廊下で大野くんにさくらと呼びかけられるのが、たまらなく好きだった。
今だってこうして、眺める景色に大野くんがいたことが嬉しい。
だけど、校舎の端から大野くんに駆け寄る影が見えると、私の心臓はぎゅうとなった。
私と同じ制服姿で。
私より少しだけ長い髪の毛を綺麗に束ねた、大野くんの彼女。

そうだ。
先週、大野くんには彼女ができたんだ。

冷やかすように杉山くんは大野くんから離れた。
大野くんはしかめっつらを真っ赤にしていた。
私は一人、目を伏せた。

***

「大野くん、そういえば。」

東京タワーが夏の夕立に霞んでいる。
高層ビルの一角、駅前のオープンテラスで私は大野くんと久しぶりにゆっくり話しをした。
突然の夕立で慌ただしく軒下に駆け込んだり、タクシーを拾う人々を静かな気持ちで眺めた。

「何だよ?」
汗をかいたストレートティーを飲み干した大野くんが笑った。
「ん?何だっけ?」
「大野くんそういえば、の続き。」
ああ、そうそう、と私は頷いた。
「高校のときにさ。大野くんが二週間だけ付き合ってた人。」
「急に何?」
突拍子のない私の言葉に、大野くんは目を丸くした。
「ゆうべ、ふっと思い出したんだ。」
「随分古いネタだな。」
「そうだよ古いよ。もう十年くらい。」
「もう十年か。」
呟いた大野くんは、ばつが悪そうに笑っている。
「ゆうべ、その時の夢見ちゃってさあ。」
私は頭をかいた。
「なんで、いまさら?」
「多分、昼間部屋の掃除したときに高校のアルバム見ちゃったからだと思う。」
「それで結局、アルバム見ふけって掃除ならなかったんだろ。」
図星だったから大野くんの声は聞こえなかったことにした。
「大野くんに彼女ができてすぐ、芸術棟から見えたツーショットにあーあ。ってなった。」
「あーあ、って。何だよそれ。」
大野くんは首を傾げ身を乗り出した。
「そのとき、私は私の気持ちに気付いちゃってさ。」
手遅れの感情にその時の私はただ、空回りして泣いていた。
時折、疼くような青臭い記憶だ。
「本当、俺の気持ちにはちっとも気付かなかったもんな。」
「何さ、二週間しかもたなかったくせに。」
キャラメルの匂いが立ち込めるカップに口をつけながら、私は口ごもった。

「しょうがねえだろ、無理だったんだから。鈍くてもとろくても、お前が好きなんだから。」
大野くんはしかめっつらで、やっぱり顔を真っ赤にして口を尖らせた。
「鈍いはともかく!とろいって何さー!」
「その通りだろ?」
悪戯っぽく笑う顔はあのころと変わらない。
あのころみたいに一喜一憂が嬉しかったり悲しかったりすることは少なくなった。
年を重ねると、日が経つのも忘れてしまいそうになる。
あのころより私はさらに図太くなって、少しだけ無邪気になった。
大野くんはあのころより逞しくて、ちょっぴり涙脆い男の人になった。

「雨、止みそう。」
「またムシムシするね。」
あのころと変わらないのは。
こうやって、一番近くで交わす大野くんとの他愛の無い言葉。
「よし!今日中にたまちゃんの出産祝い決めなくちゃね。」
「やっぱり前の店見てみようぜ?すごくよかったし。」
「そうだね。」

夕立が止んで、澄んだビル風に二人で吹かれた。
オレンジに沈んだ東京タワーが眩しくて、私は目を細めた。

HUG HUG HUG

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