午後3時の授業程退屈で閉鎖的なものはない、さくらももこはいつだってそう思っていた。
黒板につらつらと並べられたそれは太陽系の天文図、太陽を中心に恒星惑星が巡り巡っている。
真黄色の石灰は決して美しいとは言えない、それらの軌道を不器用ながらに描いている。
0.5ミリ幅のキャンパスノートには、太陽と水星金星まで写して諦めた(地球までもう一息だったが辿り着けなかった)。
地学の時間は決して苦痛ではないのだが、その授業内容次第で彼女の集中力が左右されるのは確かで、恐竜や古代生物の内容の時はそれなりにしっかりと話を聞いていた。
ところがそれが地層の話になった瞬間、睡魔との闘いに突入し舞台は今、壮大な宇宙。
ももこはまさに銀河の遥か彼方に意識を手放さんとしている。
眠くて眠くてこんなに苦しくて辛いのなら、いっそ“ろくな大人”などなれなくてもいいとさえ思える程だ。
そんなももこはこの春、高校に進学した。
市内にある平均より僅かに偏差値の高い普通科の公立高校、勿論共学だ。
周りを見渡せば小・中共に過ごした顔ぶればかり(学区内にある普通科は限られているから当然なのだが)、他校からの生徒も勿論いたりはするが皆が皆、あまり変わりばえしない環境にどこか慣れきってしまっている。
ももこには気に食わない事がこの数ヶ月で二度、起こっていた。
一つは彼女がこの高校に合格した時。
正直、勉学に関してはあまり胸を張れない所ではあるが得意科目で全体の数字を上げる作戦で、すれすれながら合格を勝ち取った。
その発表の晩、ももこの家族は奇跡だ!運だ!と大騒ぎ。
酔った父親は彼女にカンニングなしでか、と声を高らかに驚いた。
そしてその騒動にも似た驚きは十日あまり続いた。
それ位ならまだいい。
いつしかそんなテンションで、同級生達に言われ親族一同に言われる頃にはうんざりしていた。
運も味方の内だが、この時は何を言われてもとにかく気に食わなかった。
それが3月の事。
二つ目は武田洋(たけだひろし)。
彼に関しては、本当に懸案事項が山積みだ。
洋はももこの二つ上、小・中一緒で言わずもがな、彼女の通う高校の先輩でもある。
そして、ももこの幼なじみの中に彼も含まれる。
元々お互いに何かしらマニアックな一面を持っていて、それが洋にとってはカメラだった。
そこにももこが見事食い付き同じ小学校に通いながら、全く接点の無かった二人はたちまち互いの家を行き来するようになった。
そして、洋がこの高校に居ることはぼんやりと認識していたが、実際入学の際新入生親睦会とやらに現れた洋の様相にももこは心底驚いた。
入学したての一年に比べて、三年ともなれば制服はある程度着古され馴染んで来るものだが、洋のそれは明らかに周りのそれとは違っていた。
だらしなく全開になった詰襟学ランを気怠そうに羽織り、リブ素材のTシャツをまざまざと見せつけていた。
時折、鬱陶しそうに掻き上げていた瞼でウェーブする前髪、その色は目が覚める様な朝焼けの色をしていた。
洋の周りにも似た姿の三年が四人程つるんでいたが、彼は一等飛び抜けていた。
それはどこからどう見ても正真正銘、テンプレ問題児。
ももこの脳裏にはそんな言葉が過る。
そんなももこのありありと投げ掛けた視線を感じ取った洋が彼女の姿を捕えて「まるこ!」、と声を上げた時、半ば意識は飛びかけた。
これで完全にあれがももこの幼なじみの洋である事を決定付けたのだから。
「んだよ、お前この学校入れたのかよ。」
「入れたよ。」
「信じらんねえ、やったじゃん。」
彼が信じるも何も、ももこが合格し入学したことは現実であり真実だ。
そんな三年に一発目から声を掛けられたももこを同級生達は目を丸くし眺めている。
そして、三年の学年主任が鬼の形相で洋の名前を叫んでいるのが彼の肩越しに見えた。
「そんじゃな、俺帰るわ。」
またな、と冷たい掌はぺちりと二度、ももこの頬を撫でた。
踵履きした洋の上靴の擦れる音が体育館に響き、その後を続けて四人が出ていく。
俺もフけよ、待てよ洋、なんて口々に言いながらぞろぞろと。
学年主任は叫ぶだけで後を追ったりしない、他の三年も呆れた様に彼らを見ている様だった。
この光景が日常茶飯事なのだと、ももこは直ぐに気が付いた。
今の締まりのない男は本当に洋なのか呆気に取られるだけ、頬に残る熱の伝わらない感触にじわじわと鳩尾が熱くなった。
それが四月。
地学室の窓から見える中庭の百日紅(さるすべり)の木が深い緑の枝葉を揺らしている。
今は五月。
その枝葉の奥で、同じ様に揺らされる朝焼けみたいな髪が目に留まる。
瞼を隠すウェービーヘアが軽く散らされ、伏せたそこへダイタイ模様の陽射しが注いだ。
古びた鉄製のベンチから手足を投げ出し大口を開けているその姿は、相も変わらず締まりが無い。
三年は受験だ何だというのに全くいい身分だ。
野蛮、そんな形容詞が果たして以前の彼には付いていただろうか。
いくら思い出そうとしたところで、ももこは首を傾げるばかりだった。
大型連休は遥か昔に過ぎ、目の前には期末試験が迫る。
ふ、と黒板に視線を戻すと天文図は跡形も無く消し去られていた。
ももこは溜息混じりにば・か、と口の中で呟いた。
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