今、確かに認めること。
子供の頃は友達と遊ぶ放課後よりも、父の帰りを待ちながら眺める家の前の緩やかな坂道が大好きだった。
学校の給食よりもたまの外食よりも、母の少しだけ不恰好なおにぎりが好物だった。
今思えばあの頃の自分は、いつか来るその日をきっと遥かにわかっていたのかもしれない。
ランドセルを選びに行った日、目移りするほど色とりどりのランドセルを前に興奮してはしゃいでいた自分に、父も母も至極冷静に深い黒をのせたランドセルを手に取りレジに進もうとしていた。
今の世の中ランドセルも赤と黒の二つではなくなり、青、黄、緑、ピンク、それらを合わせても十色は有に越える数があるなかで二人は黒を手にしていたから、非常に驚いた。
もちろん駄々をこねてみたけれど、あっさりと流されたのは言うまでもない。
「男の子は黒、女の子は赤。これは世界のルールよ。」
一体どこの世界だ、と今だに思う。
まったく滅茶苦茶だ。
父は会社勤めをしていて(俗に言うサラリーマン)、休日になると決まって幼い手を引いて公園に行ったりディスカウントショップに出かけた。
父はとても明朗でその上大変よく運動もできるので毎年運動会になると、クラスメイトに「いいな、大野くん。」と言われ大いにはしゃいだものだった。
あれは小学校五年生の授業参観。
急な仕事で来れなくなった母に代わってやってきたのは、会社を早引けした父だった。
その日の参観内容がまた非常にベタなのが、いわゆる親子討論会的なディベートで今からすると生まれて初めて父と対峙したのはあの瞬間だった。
その時の議題が何だったとか、どちらの意見が優勢だったとかどちらでも良かった。
目の前に座った父の胸を突くような柔らかな視線に、ただひどく緊張していた。
自分の親についてここまで言うと逆にどうかと思うけれど。
この父に関しては息子から見てもとても魅力的な人間だと感じていた。
いつか自分もあんな風になりたいと切に願っていたのだ。
そんな思いを知ってか知らないでか、母は自分は自分なのだ、ということを常に口にしていた。
どんなに逆立ちしたってあんたは大野くんになれやしないんだから。
生まれた時から大野なんだけど(それよりも未だ父を大野くんと呼ぶ母に、もう誰も突っ込まない。)、そういうことを言ってるんじゃないことも分かっていた。
母が言いたいのは何より、あなたはあなた、父は父、そこなのだ。
母という人は本当に奔放で何より型にはまらない、はまりきれない女性だった。
ブランドには興味も示さず流行りの恋愛ドラマよりもドリフターズのコンプリートベストをこよなく愛していた。
憂鬱な雨だって、彼女にしてみれば無料のシャワールーム。
幼い日の梅雨の時期はシャンプーを片手に庭に出て母に髪を洗ってもらっていた。
今となるとただ仰天なのだ。
ただ、とても芯の強い背筋の伸びた女性だった。
母の不可思議なまでの魅力はその小さな体いっぱいから溢れていて、奇人めいた行動すらまぶしく映った。
そして尊敬する父は、そんな母を本当に途方もなく愛していた。
それはもう呆れるくらいに。
夏も近付く八十八夜、寝苦しい夜、夢見の悪い真夜中。
おもむろに目覚めた子供部屋で、途方もない不安に駆られて両親の寝室に潜りこんだ。
小学校に上がる前から自分にはもうすでに子供部屋が与えられていた。
六畳ほどの空間はライラック色で、誕生日が来るたびに母が壁に絵を描いてまた一年が巡るとライラックを重ね、また描く。
そうやって積み重ねられていったそこを我が家では『お城』と呼んでいた。
お城を抜け出して覗きこんだ寝室には時計が刻む音と、時折聞こえる虫の声だけが響いていた。
部屋の中心に置かれたほぼキングサイズのマットレスの上で、両親は静かに眠っていた。
枕元の出窓は斜光されず、柔らかな夜の明かりが二人を浮かび出していた。
仰向けに眠る父の肩先に母が頬を寄せ、胸の上に置かれた父の手を母はしっかり握りしめていた。
それはまるで童話のようで、しばし見惚れてそこに近付くと母が僅かに目を開けて、どうしたの、と笑いかけてくれた。
そして、父との間を自分の分だけ空けてくれて「今日だけだからね。」と抱き締めた。
父は母と自分を抱き締め、母は父と自分を抱き締めた。
二人から目一杯抱き締められて、心が体がオレンジ色に満たされていく。
そしてぼんやりとだけど、いつか。
いつの日か自分もそんな風に抱き締めたいな、と思ったのはこの時だった。
あの夜からもう随分沢山の時間が過ぎて、自分は父の背をもう十数年も前に追い抜いた。
三人で暮らしたあの家には今では両親二人が相変わらず暮らしている。
お城はライラックから褪せた白に変わり、母は時折そこに絵を描いている。
七つになる右手をあの日の父のように自分が引いて、週末になればお城に招待している。
そんな風に毎日がゆるりゆるりと過ぎて行き、家族の上に家族が重なり。
自分はこの子にやっぱり黒のランドセルを選んだ。
どうして?と口を尖らす彼に、それが世界のルールなのだと笑いかける。
いつか終わる世界に、彼らが自分に残してくれたように。
自分はこの子に残して行く。
幸せだ、こんなにも溢れるくらい。
次の交差点を右手に折れたらもうすぐそこ。
繋いでいる手が妙に落ち着きをなくしていく。
それを制するように力を込めて、こちらに引き寄せる。
お城はすぐそこ。
足早になる爪先を堪えて、青く染まる夕闇を年甲斐にもなくスキップして。
今度は自分が抱き締めるのだ。
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