悲しいときに浮かぶのは。
好きな子ができた。
破滅的に不毛で、ため息の数だけ好きが増していく。
今胸に浮かんだの、誰よ?
そんな彼女の言葉にひやりとした。
図星だったから彼女の入れたインスタントコーヒーにむせてしまった。
ほら、ね、やっぱり。
見たことか、と言わんばかりに白々と投げてくる視線に、うっと胸を押さえておどけて見せたけど効果は全くゼロ。
平岡くんいつだってそうね、やってられない。
話しても埒(らち)があかない。
そんなことを彼女は言う、話し合いすら始まっていないのに。
でもそれなら話は早いかもしれない。
そんなことが頭をもたげるから、きっと世の中の女性は俺に水を引っ掛けたり、ビンタをかますんだろう。
そこまでわかっていて解決策だって見えていると言うのになあ。
相も変わらず繰り返すから今もこういうことになっているのか。
なるほど、そうか。
そして今日も、気が付けば頬を張られていたことは、言うまでもない。
河川敷ではちらほら桜が揺れていた。
俺の頬にはくっきりと一枚季節外れの紅葉が張りつき、すれ違う度に振り返えられる始末だった。
そんな景色を痛む左頬を押さえながら、快速電車の中から眺めた。
張られた方を手で撫でながら、今回も上手くいかなかった原因が脳裏を駆け巡る。
社会人らしい理由を挙げれば、仕事・付き合いによる多忙で会えない日が続いたから。
ただ、それだけではひっぱたかれた理由には少し足りない。
最後まで彼女には本当のことは告げなかった。
口に出したとしてもこの現状が変わるわけではない。
そう思うと俺はいつも小さく一つ、ため息を落としたりした。
小学生の頃から人より少しだけ物事を色んな角度から見ることができた。
だから今どうするべきなのか自分の立ち位置だっていつも指差し確認を欠かさなかった。
それなのに、いつからだろう。
年と月日を重ねるうち、どんどん周りを見ることが億劫になって。
見た目ばかり年を取って、あの頃できていたことが出来なくなっていった。
一つのことに執着するという感情も持ち合わせていなかったはずなのに、今だに抱く想いに苛まれている。
もはや執念に近いのかもしれない。
「ひらば。」
そう呼ぶあの子を想えば、いつだって胸にじんわり滲む甘さに頭を抱えた。
俺はまだ、あの頃のままなのだ。
***
夜になって雨足はどんどん強まってビルの横っ面を激しく叩く音だけが響いていた。
そんな景色を一変させた着信を見ると、意外さに驚いて慌てて通話ボタンを押した。
「仕事終わった?大野。」
飄々(ひょうひょう)とした声で、平岡は飲みに行こうと俺に告げた。
平岡に会うのは半年ぶりだった。
小学校の同級生の中で、今だにつるんでいる杉山以外で連絡を取る唯一の存在になっていた。
当時を思い出しても、今こうしてやりとりしているなんて予想外で俺と平岡を知る人間は皆、目を丸くしていた。
平岡の雰囲気はあの頃から独特だった。
人より一歩いつも先にいるような平岡の、見透かし
てるような言動の一つ一つが当時の俺はすごく苦手だった。
「ひらばて、プツンて。糸の切れた凧みたい。」
そう言った彼女を平岡は笑っていたけどそのとき俺はとても合点がいって、ただ頷いていたのを覚えている。
会社を出てメトロを乗り継いで着いた駅を出ると平岡が待っていた。
やあ、大野。
と、相変わらず読めない笑顔で手を挙げた平岡に、俺も猿真似で返した。
「今日さ、どうしても無性に大野に会いたくなってさ。」
気持ち悪い、と思わず距離を取る俺を平岡はけたけた笑って眺めていた。
気持ち悪がることすらも見越していたみたいに、投げ掛けられる平岡の言葉遊びに皆振り回されて、それは俺も決して例外ではなかった。
「なあ、平岡。せめてさ居酒屋にしないか?」
会社帰りの男が二人、立ち寄ったのは閑静な住宅地にあるイタリアンだった。
「あり得ないだろう?第一、本当に気持ち悪い。」
柔らかい電球色の店内は、どこを見渡したってカップルしかいない。
当たり前だ、こんな絵に描いたようなムードのある店に男二人で来る客があるか。
「あるよ。別にいいじゃないか、男二人でイタリアン。水入らずゆっくり話もできる。」
顔色一つ変えずパスタを頼む平岡と、妙な汗をかいて辺りを見渡す俺は周囲から見たらさぞかし滑稽だったに違いない。
「大野、赤と白どっちがいい?俺は今日赤の気分なんだけど。」
「どっちでも、平岡の飲みたい方で。」
「じゃあ両方で。」
じゃあ聴くなよ、なんて言ったら平岡はまた嬉しそうに笑うに決まってる。
そう思うと、ぐっと喉の奥に言葉を押し込んだ。
デキャンターで運ばれてきたワインに俺は思わず、げ。と、声を上げた。
平岡は白く冷えたワインを俺のグラスに注ぎながら、何てことのない話をつらつらと始めた。
仕事のこと、会社にちょっと妙なディレクターがいてそいつがときどき本当にゲイかもしれないと思うときがある、だとか。
四日前に彼女でもないのにめたくそ詰(なじ)られて挙げ句ビンタをされた、だとか。
ろくでもないけど平岡らしい日常を淡々と続けていた。
俺は、そうか。うん、へえ、と時折挟みながら半ばやけに運ばれてきたペペロンチーノを頬張った。
「大野、結婚おめでとう。」
ああ、どうも。
それは、唐突に切り込んで来た平岡に思わず返した俺の言葉。
全く前後の会話を無視したやりとりに、いつだってどぎまぎしてしまう。
「大野ももこ、か。」
なんか違和感だな、と平岡は笑っていたけど、その笑顔は今までのものとは明らかに違っていた。
「さくらはやっぱり、さくらのままが一番だ。」
そう言って、かっちりと俺の目を見た平岡に、俺の耳元でシグナルが鳴り響いたのは言うまでもない。
さくらが大野と別れたあの日。
力強くでも何でも、こっちを向かせておけばよかった。
舌打ちにも近い、そう言った平岡の目は今の今まで見たことないくらいの真摯さで、俺はただ逸らさずに睨みつけることで精一杯だった。
「さくら、どうして大野なんだろうな。」
「知らねえよ。」
平岡の口調がやたらと淡白で、俺の荒くなっている声が余計に際立った。
「大野、俺さ。さくらが好きなんだ。」
知ってる。
そんなことは、もうとっくの昔に。
俺と彼女が仲違いすれば決まって現れる平岡が彼女をどう思ってるかだなんて、いくら俺でもわかる。
「他に異性なんて腐るほどいるけど。なあ、大野。
女って、俺にとってはさくらだけなんだよ。」
彼女以外の女性を“異性”と枠組みする平岡に、どうしようもない違和感と危機感を覚えた。
昔から色んなことを、どこか投げていたような奴が。ここまでの執着をみせるなんて。
気が付けば、俺の掌には汗が滲んでいた。
二人して注文したマルゲリータは半分も平らげられないまま、完全に冷えきって皿の上にへばりついていた。
「高校のときにさ、大野とさくら駄目になったとき。ああ、やっと俺報われるんだって思ってさ。」
そうか、と。
普段からは想像もつかないほど饒舌(じょうぜつ)な平岡に、受け答えするのがやっとだった。
「高校卒業して、さくらが上京するって聞いてやっと大野から完全に離れたんだって思った。卒業間近のお前らさ、目も耳も塞いでお互いを全身で避けてただろ?そんな奴らがさ、この先また近付くなんて誰も思ってなかったよ。」
それなのに。
「出会ったよ、俺とさくらは。」
「そう、出会ったんだよ。まさかだったよ、しかも東京で偶然に。それをさくらから聞いたとき大野がストーカーでもしてたのかなって思った。そうじゃなきゃ無理だろ?地元の街角じゃないんだ、東京だぜ。」
あのスクランブル交差点で彼女を見かけた、幾千幾万の人の波の中で出会えた。
これはもう二度と手放せないと本当に心から思った。
「さくらと別れて、だけどまた会えて。神様とか言うのは全く柄じゃないけど、これはもう巡り合わせだと思った。だから、どんなことがあってもさくらと道を違(たが)えることは二度とないよ。」
俺は努めて単刀に、平岡にそんな風に返した。
店内に響くカンツォーネはエンドロールを奏でていた。
平岡は小さく息をつくと「今日大野と話が出来て良かった」と、いつもの笑顔でつぶやいた。
それから男二人、イタリアンを出て住宅地を駅に向かって歩いた。
雨はいつの間にかすっかり上がり、真っ暗な雲が東へと流れていった。
両側に連なる建て売りのよく似た一戸建ての生活行灯(あんどん)は、雨上がりの夜道を優しく照らしている。
どこかの家からは子供の足音が、また別の家からは番犬の遠吠えが。
夜の空気には様々な暮らしが溶けこんで、夜風になって俺と平岡の頬に吹いた。
「幸せになれよ、なんてドラマみたいなことは言わないよ。」
「別に、言われたくない。」
俺が口を尖らすとあっそ、と平岡は笑う。
「さくらを好きなことは、今日大野に話したからってそう簡単に消えないから。」
「いいさ、別に。それだけ誰かに想わせる、それだけの魅力がさくらにはあるってことだろ。」
誰かを好きだと想う、それは誰かに止めろと言われてどうにかなるもんじゃない。
そのときの平岡は心なしか、やっと本当に安堵したかのように瞬きして「惚気(のろけ)るなよ」と、俯いた。
それは平岡らしからぬぶっきらぼうさで、 ありがとう、とそう聞えてきた気がした。
***
大野と別れてそれじゃあまたな、とお互い別々のホームに進んだ。
大野を乗せたメトロは、暗い地下の向こうに飲み込まれた。
その最後に見た大野は、おもむろに携帯を取出し何やらメィルを打つ仕草でネクタイを緩めていた。
ああ、さくらか。
それがひしひしと伝わってきた。
それから一分も経たないうちに、俺の目の前にもメトロが着いてあっという間に地上に出た。
夜空は雨が嘘みたいに、ぽっかりと欠けた月が雲間から覗いていた。
本当は今夜。
さくらを奪う伏線を張るつもでいた。
二人の結婚が滅茶苦茶になるようなシナリオだって、仕上げていた。
だけど大野の顔を見て、さくらの話しを聞いて何をしようと全て無駄なんだと、逆に思い知らされた。
結局、全ては神様のさじ加減か。
苦虫を噛み潰す思いがした。
ああ、さくらに会いたい。
会いたくて、会いたくて、会いたい。
携帯のアドレス帳からさくらの名前を引っ張った。
電話をかけようか。
そうすればきっといつものように「ひらば。」と、さくらの弾んだ声を聞くんだ。
メールで会いたいと打てば、「ひらばいつ空いてる?」と何の疑念も抱かず無邪気に返信してくるだろう。
メトロから乗り換えた在来線のホームで、普通電車を待つ。
俺の最寄り駅は快速が止まらない。
快速電車に取り残されホームにいるのがたまらなく嫌いだった。
今もなお、変わらない俺を残してどんどん目まぐるしい変化をとげる環境に焦りすら覚えていた。
いつまでもいつまでも、さくらを追い求める。
誰かを好きかもしれないと思ったこともあった。
だけど駄目だった。
さくらの輪郭がダブって、気持ちがブレて、最後はいつもはぐらかして終わっていた。
ホームに電車が入ってくるサイレンとアナウンスが響くき、鈍い連結の音と共に電車が滑り込む。
終電間近の普通電車に乗る人影はまばらで、ホームから乗る人数も少ない。
皆、次の快速電車を待っているんだ。
夜闇に紛れて河川敷の桜が散っているのが見えた。
木の半分が葉桜になって、今晩の雨で大半の桜は散っていた。
そんな景色がゆらゆら滲んだ。
まさか、な。
目の前に座っていた同じ年くらいのOLが目を丸くしていた。
そりゃ驚くだろうな。
だって、俺。
頬を伝う生温いものがゆっくりと滑っていったけど、それに気付いていたけど拭うことはしなかった。
もう桜の季節が終わる。
しばらくもすれば緑に染まるこの河川敷には蝉が鳴き始める。
ああ、また巡るんだ。
iPodから流れるフィッシュマンズ。
少しだけ、古いナンバー。
でもその通りだ、と思うんだ。
魔法にかかっていたように目が覚めたら、俺はやっぱり俺のままなんだろうな。
さくらを好きなままの、俺。
普通電車しか止まらない最寄りの駅。
明日になっても明後日になっても快速電車が止まることはない。
だけど、それでもいいと思った。
それでいいと思った。
いかれたbaby。
リピートをかけてから拭おうと思った頬は、いつの間にかもうすっかり乾いていた。
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