もう何度目の夜、もう何度きみを抱き締めた。
もう何度目の夜だろう。
しんと冷える晩だった。
午後九時五十分の天気予報で、今晩は底冷えの夜だと言っていた。
窓ガラス越しに伝わる外気が、予報通りであることをひしひしと伝えている。
「さくら、髪ちゃんと乾かせよ。」
風呂上がりで布団に直行した私を捕まえて、大野くんがそう釘を刺す。
はいはい、と私が生返事をすると背後からバスタオルで頭をもみくちゃにされた。
「はいはい、分かったらすぐドライヤー持つ。」
と、無理くり私の手にドライヤーを握らせた。
「大野くん何かお母さんみたい。」
「おばさんもさぞかし、さくらの身を案じてたんだろうな。」
何それ、と軽く抗議めいた顔をすると、今度はドライヤーを点けて私の髪を乾かし始めた。
大野くんがこうも口煩く言ってるのは、先週私が寝冷えしたからだと思われる。
元々、小姑体質な彼。
最近はそれに更に磨きがかかっている。
大野くんの節張った指が、私の髪の中を縦横無尽に動く。
不規則な動きに小さく息を吐いて目を伏せると、大野くんの唇が私のつむじに落ちた。
「なに?」
からかう様に彼を見上げると眉尻を少しだけ下げて、何だか困ったような笑顔。
「なにさあ、どうしたのさあ。」
何も言わない彼に首を傾げる。
やっと口を開いたかと思えば、
「さくら、しよ?」
なんて言うもんだから、いよいよ吹き出してしまった。
どこでそのスイッチが入ったのかさっぱり謎だ。
「いまさらわざわざ言うかなあ、それ。」
「や、何となく。」
そうこうしてる内に今度は唇に、何だか小さな秘密みたいに擦るだけのキス。
彼の長い睫毛が私の頬に触れていく。
大野くんのキスを、一番好きだと思う。
一番も何も私自身ほとんど経験があるわけじゃないけれど、薄い形のいい唇が合わさる時の満たされる感じは他の誰かでは味わえない。
大野くんは私の顔の横で、くっと喉を鳴らして笑った。
気が付けば大野くんは私の体を跨ぎ、私は生乾きの頭を枕に埋めていた。
「なんで笑うのさ。」
「や、さくらの顔。」
「失礼!」
「そうでなくて、キスする直前のさくらの顔。いつまで経っても緊張気味で何か笑える。」
私、そんな顔してたんだ。
初めての夜からもう、八年以上の月日。
大野くんの触れる優しさだとか、彼の押し入る時の圧迫感に怯えることは無くなったはずなのに。
むしろ口付けだけで気持ちは昂ぶる。
大野くんと別れた後、ほんの一時付き合ったひらばには抱かない感情が、彼に対しては溢れるほど湧きだしてくる。
ひらばの執拗とも淡白とも取れる営みは、激情的な大野くんとのそれをより鮮明に思い出させた。
「なあ、何考えてるの?」
いつの間にか私は、大野くんを見下ろしながらそう尋ねられたので、答える変わりに彼にキスをした。
ああ満たされて行く。
私に翻弄されて、焦らされて、せめぎ立てられているこの大きな人が、私は本当に愛しいのだと、今にも昇り詰めてしまいそうな彼を見つめながらひしひしと感じた。
彼のこの時の表情が、辛そうにしかめた眉根が、時折呟く私の名前が、花が咲き乱れる春の様に私の胸を騒つかせる。
「けんいちくんが愛しくて、たまならない。」
「さくらってズルいよな。」
このタイミングでそれは反則、と更に深く深く。
たわわに蕾を付けた枝に、一斉に花が咲き開く錯覚。
最後は大野くんに掻き抱かれながら、今日一番深いキスの嵐を受けた。
もう幾度、こうして大野くんの腕の中で白む夜空を眺めただろう。
すっかり冷えきった窓ガラスに、温く溶けた水滴が軌跡を残して滑り落ちた。
途切れ途切れの息継ぎの中、それでも優しく私の乱れた前髪を梳く指先が心底心地よくて。
私は今日も静かに深く、瞼を閉じた。
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