あいしていたかったんだ、ただ。
無い、と気がついたのは店の施錠も何から済ませて表通りに出てからだった。
シルバーのキーリング、愛車の鍵だ。
デニム、パーカーそれぞれ左右のポケットに手を突っ込んでからああ今出たところだと溜め息を吐く。
いつものたかしなら何の躊躇いも無くもと来た道を戻るのだが、その日はやけに億劫だった。
右手に巻き付く腕時計は午後九時を回っている。
電車のラッシュもとっくに過ぎただろう、それでも乗り気はしない足取りで駅へと歩く。
平日の夜の舗道の人影のまばらさ、交通量も特に多いことは無いがそれでも都心の夜は賑やかだ。
雑踏にクラクション、エンジン音、こんな日に限ってiPodすら無い。
今日が特についてないという訳ではない。
それなのにこんな些細な事で萎んでしまう、相変わらず自分は柔(やわ)な男だ。
こんな姿勢がいつだって誰かを呆れさせ苛つかせだからきっと子供の頃は同級生にいじめられたりしたのだ。
猫背だって、実はちっとも治っていない。
二十代半ばに差し掛かり仕事を持ってこなしても自分は何も変われていない、たかしの片隅にはいつもそれが横たわっている。
接客業に就いても人見知りはちっとも解消されない、高いヒールには萎縮してしまうし、競争心も乏しい。
草食系だね、と異性に言われても伏し目がちに笑う事しか出来ない。
それでも好きだと言ってくれた彼女はとうの昔に別れた。
彼女はたかしではない男を選び、そして彼の元を通り過ぎた。
同性さえも時折引き込まれてしまいそうになる、そんな眼差しの引力を持った男を選んだ。
彼女の気持ちに気が付き、背中を押しやったのは紛れもないたかし自身、あの手を離す決意にさして時間は必要無かった。
答えは至極シンプルで明解。
彼女に愛して欲しい気持ちより、彼女を愛していたい自分が勝った。
注ぐだけの想いに限界が有ることは分かっている、見返りを求めない訳でも無い。
だけど彼女と過ごした日々はそれほどまでにたかしを満たした。
自分という人間の側面に今も目を背けたくなる、そんな風に自己評価を下すたかしにとって彼女を愛していることが勲章なのだ。
そして彼女が愛してくれた日々が、彼の誇り。
だからちっとも傷ついてなどいない。
傷なんてひとつも無いのだ。
窮屈な愛車、ミニクーパー。
時々エンストみたいな音が混じるカーステに紛れて、肩が触れる距離で星の数程のキスをした。
今思い出せる全て、仕草、声、体温、彼女の全て取り零す事無く抱き締めた。
脳裏を駆け巡る、あれは玉虫色の日々。
気が付けばメトロへ続く階段まであと一歩の所にいた。
パーカーのポケットにシルバーのキーリングは無い。
三人程がたかしを追い越し地下へ潜った後、彼はその入り口に背を向けた。
「僕は、幸せだな。」
こんなにも未だ、きみを愛しているんだ。
そんな風に呟いては雑踏に揉み消される、顔を横切る風は少しだけ冷たくなった。
彼女と過ごした時間を彼女と離れた時間が追い越そうとしている。
無情に確実にたかしの足元を過ぎていく。
ああ、と息を吐く。
胃の底から込み上げる熱を押し込める様に唇をつぐめば、皮肉にも背筋がしゃんと伸びた。
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