天地創造の神よ。
イヴが食べた林檎が林檎じゃなかったら、私は私じゃなかったの。
真夜中にひとり、ふと目が覚める。
遮光カーテンにしていればこの窓一枚隔てたイルミネーションも喧騒も、ましてや白く煙った街すら見えない。
大学を出た後この部屋に暮らすようになってもう五年、さみしい、と感じた事が正直無い。
それくらい日常とは目まぐるしく忙しなかった。
いつだって、凛と背中を伸ばして時にしたたかでなくてはいけない、世の女性が皆そうでなくとも城ケ崎姫子はそうでなくてはいけない、と思っている。
朝が来る度ラッシュアワーに飲み込まれる度、私は私にそう言い聞かせた。
例えば恋人の前だったとしても、相手が異性であれば常にそう居なくてはいけない振る舞わなくてはいけないと、半ばそれは暗示に近い物でもある。
いつものオフィス街を肩でかわしながら、ふと、名前を呼ばれた気がして振り返る。
miu miuのパンプスがその弾みで鈍い音を立ててアスファルトを蹴った。
そして振り返った先には良く見知った彼女が立っていて、唐突な出来事に私は目を丸くした。
「さくらさん。」
「やっぱり城ケ崎さんだ、おはよう!」
荒いビル風にお互い髪を乱されながら(彼女に至っては前髪が跳ねてしまっている)、その丁度中間点まで駆け寄った。
「空耳かと思ったわ、こんな所で会えるなんて思わなかった、よく気付いたわね。」
「似てる人いるなあ、って。」
「何それ、人違いだったらどうしてたの?」
「謝る。」
丸の内の舗道の真ん中で僅かに息を整えながら目一杯答えた彼女が何だか可笑しかった。
「城ケ崎さん、本当に綺麗だから。多分、私、絶対見間違わないと思う。」
そして、こんなところで会えるなんて!とこれ以上無い位に笑って私の肩に触れた。
多分なのに絶対なんて言うこの人、さくらももこはもう十年以上昔から知る友人の一人だ。
それこそ小学から高校までという長いスパンで私は彼女を知っていたし、彼女も私を知っていた。
彼女はいつだって私に羨望の眼差しを向け、いつだってそれがむず痒くてだけど私には根拠のない自信がむくむくと湧くのだ。
それは容姿であったり私のバッググラウンドもそう、ひがんだり妬んだりする訳でも無い、ただいつも私のことを真っ直ぐ褒めてくれる数少ない同級生なのだ。
「城ケ崎さん、また連絡してもいいかな?」
「勿論よ。」
「ありがとう、今日、朝から会えて本当にラッキーだよ。またご飯行こうね。」
彼女が挙げた左手には華奢なリングが光っていた。
それと同じ位、彼女のボブヘアは朝日に照らされて煌めいている。
彼女達は確か今遠距離をしている(そして彼女の恋人も私はよく知っている)、とそれは風の噂。
明朗な彼女に抱いている気持ちが憧れとは似て非なるもの、と気が付いたのはもう随分と前のことだ。
ただ、思春期の柔くて危うげな時期をとうに越えていたのでこれが本物であることは確かだった。
勿論そんな自分自身に愕然としたし、失望感さえ湧いていた。
誰かに愛を告げられても体を繋いでも、しんしんと想いだけが募る一方でそこでようやく私は諦めた。
自分のことを異様だと思うことも。
例えばイヴが食べたあの実が林檎で無かったとしても、どちらにしても彼女は彼女のままだし、私は私以外の何者にもなれはしないのだ。
だから背筋を伸ばして前を向いて、いつかこの恋が風化していくその日まで、せめて虚しさだけは感じない様に。
胸を張っていたいのだ。
だけど時々、柄にもなく心臓の辺りを締め付ける甘い痛みが苦しくさせる。
そんな時は我慢せず、アイメイクに気を遣いながらひっそりと泣いてみたりするのだ。
そう、例えば清々しい初冬の朝、今日の日の様な事だ。
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