急遽大阪に行って来い、と上司に命じられたのは2日前。
大阪で行われる大規模な展示会とその後の懇親会に出てほしい、とざくっと概要を伝えられたももこはただ頷くしかなかった。
本来行く予定だったももこの先輩の奥さんが、出産のために入院した事がももこが代打を務める理由、週末にのんびりしようと目論んでいたももこにとって、土曜戻りの出張は計算外だったが理由が理由なら仕方がなかった。
とはいえ、前日になって久しぶりの大阪という事、実は宿泊が中之島のリーガロイヤルホテルだと知らされてからは気持ちが急浮上し、つくづく現金なももこ自身に内心うっすら苦笑いを浮かべたのだった。
とにかく急に決まった出張に備えて何だかんだと仕事を片付けていたら、結局帰宅したのはラッシュもとっくに過ぎた22時だった。
そして前の晩、急にたまえに呼ばれて食事をする事になったのだが、全て終えて向かった新宿に着いてももこは驚いた。
その隣には、まさに仕事終わりのサラリーマン風情をした彼女の恋人が立っていた。
「あ、さくらお前。今なんで杉山くんがいるのよっ、て思っただろ。」
「当たり前じゃん、思うに決まってるよ。久しぶりにたまちゃんに会えるって思って来たのに。」
そう唇を尖らせるももこにたまえは心底申し訳なさそうに詫びた。
「杉山くんがどうしても、って聞かなくて。」
そう言う彼女の左手に光るシルバーリングを見つけて、ももこは杉山をもう1度見ると仕方ないねえ、と快諾せざるをえなかった。
「店はもう決めてるんだぜ。」
出来る男だろ?と、先頭をきって歩く彼の言葉をやり過ごして、たまえと肩を並べて歩き出した。
本当はけんいちとの一件を知らないはずがない杉山と、このタイミングで顔を突き合わせるのは気まずかった。
しかしそんな事を言って逃げている間もなく、気付けばももこはすっかり彼のペースの中にいた。
杉山に連れられて着いた先は、中野のメインストリートを少し先に行った落ち着いた佇まいの居酒屋だった。
「あれ、何かいい感じだね。杉山くん良くこんな所知ってたね。」
「ちょっと素直に褒められてる気しねえな。飯もなかなか美味いんだよ、ここ。」
「へえ。」
たまえの声とシンクロして、意外だね、と2人顔を見合わせて笑った。
店内は落ち着いた内装にボサノバ調の有線が、確かにいい雰囲気だ。
そういえば、けんいちが前に連れて行ってくれた品川の鶏料理の店もこんな雰囲気だった。
彼はあの店をどこで知ったのだろう、はたまた誰と。
そんなどうでもいい事がふわりと浮かんだ。
通された席に着くと、杉山がドリンクメニューを見ながら生ビールの中ジョッキを2つとウーロン茶を頼んでいた。
「あ、さくら生だろ?」
勿論、と言いはしなかったが確かにその通りだった。渡されたお絞りを解(ほぐ)しながら、まずはやはりたまえの体調の事。
「たまちゃん、悪阻(つわり)とかないの?」
「まだ今はそんなに酷くないんだけど、だいぶきつい時が出てきたかな。」
「今日は大丈夫?」
「うん、今日は気分いいの。でもそろそろ会社も辞めなくちゃ。きっと今より悪阻きつくなっちゃうと、ね。」
そこで注文したドリンクが手渡され、その横で杉山がフードメニューを見ながらあれやこれやと注文している。
時折、穂波は?とかさくらは?とか尋ねる彼に、全てを委ねて話は進む。
「杉山くんとはもう一緒に住んでるの?」
「ううん、安定期に入ってから一緒に住もうかなって。引っ越しとか、やっぱり急にはね。」
「でも、もし何かあったらさ。杉山くん居てくれたら安心じゃない?」
「そうださくら、言ってやれ。穂波の奴そう言ってきかねえんだよ。実家ならまだしも、穂波だって1人暮らしだぜ?そら心配だわ。」
ううん、と思案顔のたまえの横から杉山。
「やっぱりそうすぐにはいかないよ。」
不動産屋は?お金は?、そう聞き返されて今度は彼が思案顔。
「でも、結婚するのも大変だねえ。色んな事決めたり、変えたりしなくちゃいけないんだもんね。」
既に3分の1減った手元のジョッキを見つめももこが呟いた。
「本当に、何かまだまだしなくちゃいけないことが山積みで。」
「でも幸せ。」
そう割って入ってきた杉山をたまえが嗜(たしな)め、ももこはあっそ、と半ば呆れて見せた。
だけどそんな風に寄り添う2人を見て、あながちジョークではないことを思い知る。
確かに2人を包む空気が明らかに前と違っていた。
こんな風に人と人が寄り添い積み重なって行くのかと思うと、胸の奥が痛いくらい熱かった。
「杉山くん、ちゃんとたまちゃんよろしくね。本当に大事な子なんだから、一生懸命頑張ってよ。」
勿論、と笑った杉山の声がそれは羨ましくなるくらいの力強さだったから、更にももこの胸を熱くした。
「その流れでさ、さくら。俺もお前に言いたいことあんだよな。」
どの流れかはお構いなし、ただ杉山の視線がはっきりとももこを射抜いた。
「お前、どうしてんだよ。」
「何が。」
何がじゃない、話の矛先は完全にそれを指している。
「大野、超へこんでたぜ。お前に好きって言ったら逃げられて、もうそれはそれは見てらんないくらい。」
「やっぱり聞いたよね。」
「そら聞くわ。あの大野が告白なんて!」
「私もびっくりした。夢かと思った。」
「杉山くん、それは大野くんとまるちゃんの問題だよ。私達が、」
「うん、別にさくらを責めてる訳じゃねえんだ。でも、さくらが穂波を大事だって言ったみたいに、あいつは俺のダチなんだ。だから、大野がどうしてもどうにも出来ない事があるなら俺が手を貸すのは当然だろ。ほらあいつ、そういうの超疎いからさ。」
ももこは手元に落とした視線を戻せないまま、優しく諭す様な声をただ聞いていた。
暫く口を閉ざしていたたまえの息を吐く気配。
「まるちゃん、私ね。まるちゃんが毎日笑っていてくれたら嬉しいの。まるちゃんがしたいことして、食べたい物食べて、会いたい人に会えて。それで毎日笑ってくれるなら、こんな嬉しいことってないの。今すぐじゃなくてもいつか、大野くんにきちんと気持ち言えたら、いいね。」
たまえには、やはり全部お見通しなのだ。
素直になれない自身も半ば意地みたいに凝り固まった罪悪感も、全部見透かされていた。
「お前も、たかしと別れる原因になったのが大野だからそう簡単には行けないんだよな。けど、大野だって相当悩んだと思うんだ。だってあいつ、3年も付き合ってた彼女と別れたんだぜ。大野ってさ言い方まずいけど正直、情みたいなもんで付き合えたりするんだよ。付き合いが長ければ特に、相手の良いとことか知ってるしって。まあ、それがかえって残酷ってなるんだけど。でも、そんな大野がそこまで動いたってよっぽどだと思うわけ。なあ、あいつどんな顔してた?」
告白された時、どんな顔してた?
けんいちはどんな面持ちだったのだろう。
あの時けんいちの表情を見る余裕なんて、正直ももこにはなかった。
ただ蘇るのは、しんと響くひたすら真っ直ぐな声。
いつになく杉山の声も響いていた。
わかりきってはいたが、いたく傷つけたかもしれない。
あんなに真摯な告白から逃げたももこには、もう遅いのかもしれない。
気付けば運ばれた料理には誰も箸をつけていない。
目の前に座っている2人の姿が滲んでいく。
どうしようもなく今、けんいちに会いたかった。
0コメント