翌日の関西もいい天気だった。
ローカルの天気予報を点ければ今日の降水確率は10パーセント、昼間ならば上着が無くても過ごせそうだった。
11階のホテルの窓からは白々としたビルに、既に昇った日射しが照り返していた。
靄(もや)がかった高層ビルの下を四ツ橋筋が走り、俄(にわ)かに朝のラッシュの気配。
東京だろうと大阪だろうと同じ様な朝靄で、同じ様な日射しが注ぐのだ。
こんな風に出先の街で朝を迎える度、けんいちは不思議な気持ちだった。
地球が自転してるだとか丸いだとか、世界は繋がってるだとか昔理科の授業で教わったような、はたまたコスモポリタン的な発想だった。
今日の予定は9時半に東梅田。
ホテルのある肥後橋からゆっくり歩いても20分で着いてしまう。
ホテルのモーニングにもそろそろ慣れた事だし、コンビニでも行こうかと思惑した。
昨夜、いつもの様に杉山からメールが飛び込んだ。
今日遅い?
飲みにいこうぜ。
今出張なんだ、と返したきり杉山からの音沙汰はない。
だいたい、彼に関してはいつもの事だったので特に気に留める事もなかった。
そして、そんな杉山によく似た営業マンにうっかり話してしまったももこの事。
あんなにも穏やかに彼女を想いだした事は今まで1度もなかった。
あれからただの1回も連絡を寄越さない、酷い彼女。
シナプスが繋がる度、彼女以外にも女なんて星の数だ、と囁いたがそことは全く別の所で頑(がん)として頷かないものが転がっていた。
予定通り身支度を整え、四ツ橋筋を大阪駅に向かい歩いた。
朝食を摂りながら開いた手帳を見れば今日のスケジュールは余裕があり、9時半の東梅田が終わりそこから堺筋本町の関西支店で打合せを済ませれば終業出来そうだった。
もしそうなれば、今日の夜ももこに電話を掛けてみよう、そんな事を考えた。
似たようなビジネスマンの列も皆同じ方向を目指し歩く。
街路樹には背中にあるリーガロイヤルの道筋と、何か催事の案内を示す立て看板が幾つかの間隔で備え付けられている。
足を止める事はないそれを横目に収めて、通勤ラッシュの街並みをひたすら突き進んだ。
けんいちが堺筋本町を出たのは想像していたよりももっと早く、明日の午前中の商談さえなければその足で新大阪に向かいたい程順調だった。
西梅田で時計を見れば午後5時48分、通常業務であればもうまもなく終業だった。
一先ず東京の課長に報告を入れ、商談の内容や進捗を伝えると課長からは、今日は上手い飯でも食べてゆっくりしろ、と言われた。
おつかれさまでした、と携帯を仕舞い辺りを見渡すといつもの肥後橋へ向かう筋から1本外れていた。
全く見覚えのない高架の下をくぐり、もう1度見渡してから何となくで肥後橋に向かって歩いた。
入り組んだビルの谷間は隠れ家的な居酒屋やバーが点在して、道を知り尽くしたケータリングカーやタクシーがけんいちを追い越した。
痺れを切らして携帯を探りGPSで目的地を目指す。
日の傾いた街にキリンの様な街灯が灯り行く先に影を落とす。
携帯のディスプレイに中之島の土佐堀と表示され、緩やかに上っている舗道を上がればその向こう手に見覚えのある大通り。
そして目に飛び込んで来たのは灰色の楕円をした建物、大阪市立科学館と最上部の四角い窓に貼りついている。
そこでけんいちは足を止めた。
2度も果たされなかった中野ZEROが彼の脳裏を過った。
1度目はももこと食事をした晩、そう彼女が納期をミスしたあの日の晩。
広報担当者からその事を聞かされ、僅かに猫背の彼女がより一層丸くなった姿が浮かんだ。
そして気が付けば彼女に電話を掛けていたし、思いの外(ほか)持ち堪えていた声を聞いて酷く安堵したのだった。
彼女は笑ってくれたし突拍子もなくプラネタリウムをリクエストした。
あの時、既に閉館していたそこに「また来よう」と、そう言ったのはけんいち。
お互いに恋人がいた男女には迂闊すぎる発言だったな、と今なら分かる。
2度目はついこの間。
あの日のけんいちは錯覚していたのだ。
彼女と自身の関係がとっくの昔から築いていた物みたいに、それは穏やかな物みたいに。
だから彼女が抱いている気持ちを汲み取ってやる事が出来ず結果、戸惑わせてしまった。
追いかけると決めた、どれだけの時間を掛けても少しずつでも。
人生は長い。
あんな風に時々笑って話をしてくれたら幸せだ、そして出来ればこちらを向いて欲しい。
初恋だった。
未消化だった学生時代の想いは、月日を重ねたけんいちに再び訪れた初恋。
閑散とした科学館への石段を上がれば、やはりガラス張りの向こうのエントランスは薄暗かった。
ガラスには閉館5時、それはそうだとけんいちは踵を返した。
夜間になれば僅かに冷える、けんいちはコートの前を合わせた時、まるで春一番、1度だけ川から吹き上げた突風に目を閉じた。
と、同時。
あっ、と女の声と舞い上がったのは深いグリーンのフリンジ。
目を開けば、深いネイビーのワンピースの裾を押さえた女、そして夕闇でも判る程煌めく紅茶色したボブヘア。
そのどれもがはらはらと落ち着いた時、乱れた髪を耳に掛け整える女と目が合う。
マスカラに縁取られた黒目がちな瞳がみるみる開かれる。
それはスロウに、ひょっとしたら実は光速。
瞼の上で綺麗に切り揃えられた前髪に、呆気に取られ呆然と見つめ返すその眼差しに、全てはけんいちが良く知る物。
「大野、くん。」
唇が動く。
ビルの端が葡萄色に染まり、石粒の様な星が瞬く。
思えばいつだってそうだった。
幻のように、夢でも見ているかのように彼女は現れる。
その度にけんいちの胸は掻き乱され、より強くその存在を焼き付けられていく。
いつだってそう。
さくらももこは、いつだってそうなのだ。
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