ふ、と目が覚めると新幹線は京都を過ぎた所だった。
窓に切り取られた景色は、いつの間にか住宅地へと様変わりしていた。
間もなく到着を知らせるアナウンスに隣前の乗客が網棚から荷物を下ろし始めたので、けんいちも窓際のフックに掛けたジャケットを羽織った。
出掛け際に見た天気予報が全国的に洗濯日和、と言っていたのはどうやら当たりらしく、東京駅からここまで空は高く雲は薄くかかったまま。
時折射し込む日射しに瞼が重たかったが、何とか堪えていた。
京都から新大阪までのほんの僅かな時間、ぼんやりと微睡(まどろ)んだ。
大阪出張は今年に入って既に2回目、いつもの肥後橋のビジネスホテルにも相変わらず慣れたものだ。
前回持ち帰った仕事は今回の商談で一段落する、これが決まれば暫くはいつものルーティンワーク、何だかんだと日々は忙しなく過ぎた。
新大阪駅に着くと丁度出勤ラッシュの時間帯で、御堂筋線の改札の傍らにあるマクドナルドには朝食を摂る為の行列、そこに向かって流れ込む人波に乗りけんいちも改札をくぐった。
大阪出張が定期的に入る様になってから買ったトゥーミのボストン仕様のビジネスバックは具合良く馴染んでいた。
それを肩にぶら下げて満員の車両に揺られた。
東京の満員電車を知れば肩と肩が入り組む車内でもさほど苦痛ではない、窓に映る自身の表情は俄(にわ)かに余裕だった。
新大阪から一駅でその電車を降りさっそく取引先へと向かう。
今日で3件、商談のハシゴだ。
ネクタイの根元をおもむろに整えて深く息を吸い込むと、あれだけ重たかった瞼が清々(すがすが)しく冴えてくる。
そういえば、あれ以来ももこからの着信は無い。
長期戦は覚悟していたが流石に不安になる。
このまま、彼女は本当に幻になるのではないか。
あれだけ会いたいと切望していたが為の幻、懐かしくも切ない馴れ合いではなく心地良い彼女の空気。
全部、幻。
そう思うとけんいちの内には容赦なく、春の嵐が吹き荒れた。
今回の商談も得意先同士という事もありトントン拍子で事が進んでいった。
こんな頻度で大阪来るならいっそ住んでしまえばいいのに、と他愛ない世間話と共に商談相手に大阪移住を勧められた。
「大野さん、彼女とかいてないんです?」
「今は、いないです。」
「そしたら、これは是非関西支店に異動してね。飲みに行ったりね。」
取引先の営業はけんいちより2・3上で人懐っこい笑顔の喋り上手、絵に描いた様な営業マンだった。
「しかも彼女なし。これは毎晩飲みに連れ回すわな。」
ミナミにむっちゃ上手い焼鳥屋あるんです、と何ともひょうきんな彼の提案は留まる所を知らない、けんいちは思わず笑ってしまった。
何となく、この前のめりな割に人当たりが良い雰囲気が杉山に似ている。
「何か、知り合いに似てます。」
「僕ですか?」
「はい、何かもう色々。」
「よう言われるんです。知り合いの友達とか、弟の友達とか。皆ちょっと遠いっていうね。」
「それは、ちょっと遠いですね。」
「でしょう?ほんま何がやねんて感じですわ。」
そう大袈裟に膝を打って、やたらとオーバーに声を上げる。
「あ、今の。その膝打つ感じも知り合いに似てます。」
「今度は知り合いの知り合いですか?」
「や、地元の女友達に。」
そのリアクションが。
そうけんいちが言えば、おや、と半ば身を乗り出して食い付いて来た。
この営業マンはどうやらその手の話題が好物らしく(そういえばよく他人の色恋沙汰程面白い物はない!と豪語している)、教えてくれと言わんばかりに嬉々とした目をしていた。
「そんな興味示さなくても、いい歳した男ですよ、あなた。」
「や、むっちゃ興味ですよ。だって膝打つ女子なんて今どきおります?おらんよ、しかもそれがイケメンやり手営業マンの大野さんのツレってー!どないってなりますやん。」
「や、膝打つ女子なんでね。しかもちょっとマイペースなヤツなんで。」
そこまで言うとはた、とけんいちは口を噤(つぐ)んだ。
営業マンの目が三日月の様な弧を描く。
「むっちゃおもろいじゃないですか、その子!こっちじゃ間違いなくモテますね。」
さあどうでしょう、なんて言い淀みながらけんいちは内心穏やかではなかった。
今、とてつもなく恥ずかしい事を言った気がした。
にやついた目の前の視線は一寸たりとも逸らされず、こちらを見ている。
「まあ、とにかく変なやつなんです。」
意味をなさない咳払い、手元のクリアファイルの束で何度か机を叩いて整えてみる。
何の意味もない、ただ落ち着かない。
「えー大野さん、好きなんやあ。その子のこと。」
「え。」
「ええ、意外や。大野さんめちゃくちゃ分かりやすいんですね。」
「出てます?」
「ええ、出てますね。だだ漏れです。」
「参ったな。でも、完璧な片想いなんですよ。何ならつい先日告白したら、こともあろうかめちゃくちゃ怒られてしまって。」
いよいよやけくそだった。
片想いなんてフレーズを自発的に発したのは、ひょっとすると生まれて初めてかもしれない。
「ぶは!怒るって!めっちゃ面白いー!そんな素直に好きな子の話出来るのんて、いいですねえ。」
「20代半ばに差し掛かっても、全く上手くやれないんですよ。」
「それは大野さんがその子をほんまに好きだからですよ。やっぱりね、恋愛と年齢は比例しいひんからね。」
恋愛に上手いも下手もない、とも付け加えた。
誰かを想うと苦しくて面倒くさくて、どうにもならない人の気持ちに振り回される、少し前までそんなことが億劫で仕方が無かったというのに。
気持ちは日々積もって行く。
けんいちが彼女を思い出さない日は、ただの1日も無かった。
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