彼女と過ごした月日は確かにけんいちの体に染み付いている。
付き合い始めはただ何となくに過ぎなかった彼女は、仲間内からの評価は絶大で女性特有の少しだけ起伏の激しい所、やや嫉妬(やきもち)やきな所全てはその人懐っこいその人となりが全てを帳消していた。
どこか自身の評価に偏りのあるけんいちに、手放しで想いをぶつけつきた初めての異性でもあった。
思えばいつだって、見返りを求めないのが彼女だった。
一方のももこはといえば、学生の頃から男女問わない交友関係を築き上げ、女子とは全く関わりを持たなかったけんいちと言葉を交わす、唯一の異性だった。
ももことの間にあったのは幼なじみというグレーな関係、友達と呼ぶには近過ぎて恋になるには早熟。
だから、けんいちはももこを意識していたことに気が付くまでかなりの時間を要したのだ。
女性の丸さや柔らかさに溢れた彼女と、性別の垣根を軽々と越えてしまう程鮮やかな存在感を放つももこ。
全く対極にいるようで、いずれも人を惹きつけるその2人の遠心力にいつだって胸を高鳴らせていた。
「俺さ、好きな人がいる。」
色んな言葉が脳裏に過った筈なのに実際口をついて出たのはそのたった一言。
相変わらずの北風がビル間を抜け枯れた街路樹を揺らし、彼女の瞳も揺れた様に見えた。
「だから、もう付き合うこと出来ない。」
けんいちは精一杯言葉を繋いだ。
「話って、それ?」
足を止め肩を向けた彼女はこちらを見ようとはしない。
少しだけ俯いた頬には髪の毛がかかり、その表情を伺い知る事も出来ない。
「何だ、そっか。気の迷いとかじゃなくて、本当の本当に?」
「うん、気の迷いじゃないのは確かなんだ。」
けんいちの声はやけに堅くしんと冷えた空気を震わせた。
依然、彼女の表情は読み取れない。
「そうなんだ、私振られちゃうんだ。」
「ごめん。」
「何謝ってるの?もう気持ちが決まってるなら、私が何言っても無理なんでしょ。」
「本当に、ごめん。」
「だから、やめて。私のことだから泣いて喚くと思った?」
泣かないわよ、と彼女が呟けばその言葉数の分の息が白く揺らいで溶けていく。
「泣かないし喚かないし、責めない。だってそれこそ、あなたの思うツボじゃない。でも、ちょっと清々した。だって、」
この3年間ずっと片想いみたいだった、付き合う前と同じ、いつも追いかけてるみたいだった。
けんいちは何も答えられなかった。
「ねえ、私と付き合ってた時、一瞬でも私のこと好きでいてくれた?」
今も彼の心を捕えて離さないももこ、記憶も感情も何もかも統(す)べている。
それでも彼女に対する気持ちはちゃんとあった。
ももことは全く別の所で、だけど彼女から注がれる好意にけんいちは救われていたのだ。
「好きだったよ。こんな俺なんかには、勿体ないって思うくらい。」
アスファルトに流れている風が吹き上がり、彼女の髪を再び巻き上げる。
「もういいよ、わかった。行っていいよこのまま行って、私ここから帰れるから。」
「ごめんな、駅まで歩こう。」
「いらないから。本当に、お願い。これ以上謝らないで、可哀想な訳でも、惨めな訳でもないんだから。だから、行って。」
だって私、本当にあなたが好きだったんだから。
ほんの少し上下する彼女の声は、ヘッドライトの川に流れていく。
やけに小さな細い背中を暫く見つめ、けんいちは踵を返した。
そのすぐ後に駆け足のヒールの音、それはあっという間にけんいちの耳に届かない程遠退いた。
終わった、ひとつの関係が拍子抜けする程静かに。
底冷えする晩に指を絡めた、南から風が吹けば肩を抱いた、木々が色付けばキスをした、そんな風に過ごした関係が今終わった。
「ああ、確かに。泣いたり、喚いたり、詰られた方が。いくらかいいかもしれない。」
殆ど意識の無い所から口をつい出た言葉に、胸の奥がちりちりと悲鳴を上げている気がしたが、足を止めることはなかった。
振り向く事はなかった。
***
水曜の朝、けんいちはどことなく憂鬱だった。
特にこだわりなく点けているニュースをBGMに、歯を磨きながら星座占い(全く信用していないが1位だと不思議と気分がいい)を眺める。
今日の東京は晴れ、と既に春色のアンサンブルを身に付けた気の早いキャスターは笑っている。
そこで再び洗面所へ戻り口を濯(ゆす)ぎ顔を洗う。
髭を剃りながらふ、と鏡の中の自分の後頭部が跳ねている事に気付く、それも思いの外豪快に。
それを水で湿った右手でたっぷり撫で付けてやると、今度は不自然にそこだけが寝た状態になる。
何とも冴えない自分に溜息を吐きながら、ワイシャツに袖を通すとしゃんと背筋が伸びる。
スラックスに履き替えネクタイを締める、今日はプレーンな黒地にストライプを効かせたスーツとダンヒルのネイビーのネクタイを合わせた。
そうこうしている間に撫で付けられて寝ていた髪もすっかり乾き、もう1度鏡に向かう頃気分は上昇している。
どんなに憂鬱な朝だって、ずっとそうやって越えてきた。
昨日の朝まではここに辿り着くまでに1度、欠かさず携帯が鳴っていたが今日はぴくりともしない。
充電コードから携帯を引き抜き、マナーモードを確認するとスーツの内側へ仕舞った。
着込んですっかり馴染んだバーバリーのコートを週末にはクリーニングへ入れよう、そんな事を考えながら扉を押した。
同じ様な人波に流され、会社のエントランスをくぐると受付に立つ彼女を見た。
いつも通りの装いで、そこにいる。
昨日まで恋人でいても地球が自転すればすれ違うだけの関係になる、頭では理解していたがそんな万物の仕組みにけんいちはいつだって違和感に近い感覚を覚えた。
それと同時に自分自身もコスモに浮かぶ惑星の1つに過ぎないと、記憶に散らばる無数の感情は本当にちっぽけな物に思えたりした。
時折訪れるその感情に一層嫌悪しながら、そういえばプラネタリウムに行きたいと行っていた誰かが過った。
結局行くことが出来なかったプラネタリウム、彼女はあの恋人と足を運んだのだろうか。
杉山に諭され自分の気持ちを自覚してからのけんいちは、雪崩(なだれ)てくる彼女への想いでダム決壊寸前だった。
認めてしまえばこんなにあっさりと感情に折り合いは付くし、闇雲だった目の前の景色も嘘の様に見渡せる。
杉山の言葉を借りればこれもやはり恋。
そんな杉山が神妙な面持ちでけんいちを呼び出したのは、その日の晩。
お決まりの大手居酒屋チェーン店で彼は言った。
「大野、俺結婚する。」
その突飛さに、けんいちはただ視線を泳がせた。
「何、急に。」
「俺、父親になるんだよ。」
そこかしこに弾け飛ぶ杉山の会話に、けんいちは思わず喉を詰まらせた。
「穂波、出来たの?」
「出来たとか言うなや、授かったんだよ!」
どっちでもいい、を飲み込んで今度はしっかり杉山に視線を合わせた。
「とりあえず、おめでとう?」
「ありがとう!来年には赤ん坊抱っこさせてやるからな。」
「産むのは穂波だろ。」
目の前の親友が、いつもと変わらない調子で軽口を叩くその端々にはけんいちには無い“らしさ”がちらつく。
「そうか、まさかお前と穂波がな。」
「どういう意味で?」
「人生わかんねえな、って。」
「半分は俺の執念、半分は成り行き。」
恐ろしい奴、と半ば呆れたがそうに違いない。
杉山もたまえもなるべくしてそうなったのだ。
幼い頃から2人を見てきたけんいちにも、そんな予感がひしひしと伝わっていた。
「おめでとう、杉山。」
「ありがとう。で、大野は?」
意気揚々、杉山が身を乗り出さんばかりに尋ねて来る。
「お前も何かあるんだろ?」
杉山から話したいことがある、と連絡が来た時けんいちも丁度自身の身の回りの変化を伝えようと、同じく話したいことがあると返信した。
しかし前述の杉山のめでたい話題に続けられる程図太くもなれず、ああ、なんて濁して「別れた。」とだけ呟いた。
店内を見渡せば、やはりいつもの似通ったサラリーマン風情、そして有線はドリームズカムトゥルー。
「まじで、いつ?」
あの年下ちゃんと?と、今度は杉山。
「つい、この間。」
「大野から切り出した?」
「勿論、付き合ってるのに片想いしてるみたいって言われた。」
「ああ、だって大野ずっとさくら好きだったもんな。」
「多分な、多分。そういうの全部向こうに伝わってたんだよな。杉山の言うとおり、まじで申し訳なかった。」
「やけに素直ね、けんいちくん。」
「もう今更否定しねえよ、誤魔化すのも止めた。どうしたって好きなもんは好きだ。」
そう口に出した瞬間、再び気持ちが加速した気がした。
「そっか。とりあえず、おめでとう。」
「何がおめでとうだ。」
「晴れて片想いのスタートラインに立てた事。一体ここに立つのに何年かかってんのよー、けんいちくんてば。」
うるせえよ、とけんいちが口の端を持ち上げれば杉山も思わず吹き出す。
ももこに会いたいと思った、あの雪の日からぷっつり途絶えた彼女の記憶を塗り替えたかった。
声を聞きたいと思った、心地よい無礼講な言葉に胸を躍らせたかった。
そして叶うなら、この腕に抱きしめたい。
理性ぎりぎりの狭間で、ももこに会いたかった。
「素直になったけんいちくんに朗報だ。」
何とも挑戦的に口を開いた杉山は、卓上に並べられた酒の肴を品定め気味。
「俺が言うことじゃないとは思うけど、今の状況であれば、俺はお前の味方だ。」
何やら仰々しい口ぶりの杉山の箸が、軟骨の唐揚げにようやく狙いを定めた。
「何の話?」
「さくら別れたって、たかしと。さくらが振られたらしい。」
今度こそ確かな話だぜ、と杉山は有線に合わせて鼻歌混じり。
「未来予想図Ⅱ、まさに今の俺らにぴったり。」
しみじみそんな事を言っていたがその時にはもう、何1つけんいちの耳には届いてはいなかった。
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