お母さんになってたの。
目の前でパスタを絡める親友の言葉は、思いの外彼女の期待の遥か先の出来事で、ただ瞬きするしかなかった。
シナプスが繋がらない、そんな気分だった。
「お母さんに、たまちゃんが?」
「うん、私。」
「誰の。」
「まるちゃんったら。」
誰のって、と手を止めた所でリゾットも運ばれ2人は思わず声を潜めた。
「ええ!本当に、本当?」
「今日午後病院行ってきたら、ね。そうだったの。まだ2ヶ月だから本当にまだ小さいの。」
ももこは俯き加減のたまえをまじまじと見つめながら、堪らなく不思議な気持ちに驚きは留まらず、半ば呆気に取られてしまった。
「それ、杉山くんは?」
「まだ言ってないよ。」
「そんな大事な時に、本当ごめんね。私、自分のことばっかりで。」
「ううん、あの電話の時、私もぼんやりしてて。実はちょっと怖かったりして。でもまるちゃんの声聞いて、真っ先に聞いて貰いたいって思ったの。」
本当よ、と子首を傾げるたまえに「おめでとう!」と伝えた声はももこ自身でも驚く程、熱が篭ったものだった。
真っ赤なランドセルを背負い肩を並べて歩いたたまえ、セーラー服の襟をしゃんと正しどんな瞬間にも1番にももこを思い接してくれた。
家族とは別に構えたカテゴリーで彼女は間違いなく、ももこにとって絶対の愛の対象だった。
そんな彼女に、自分がそれ以外のどんな言葉を掛けるというのか。
「おめでとう、たまちゃん。」
目を丸くしたのはたまえ、その目尻が滲んでいたのはきっと見間違いではない。
真上から照らすオレンジ色が2人の輪郭をなぞり、俄かに震えるそれぞれの睫毛が頬に影を落とす。
「ありがとう、まるちゃん。」
安堵の溶けた瞳をたまえが細める。
その晩の彼女の笑顔と、湯気の立ち込めるカニの味は、時折思い浮べる程ももこの胸に焼き付いて生涯忘れる事はなかった。
けんいちが会社を出る頃、駅前は既に1軒目を終えたサラリーマンで賑わっていた。
首筋を駆け上がる風はまだ冬の厳しさそのもので、思わず羽織ったコートの前を合わせた。
仕事が終わったら連絡すると、彼女と約束した通り携帯を取り出した。
ネオンで曇った濃紺の空を見上げながら、俄(にわ)かに緊張している自身に深く息を吐いてコールを聞いた。
3コール鳴り終わる前にもしもし、と彼女の声が耳元に響く。
「今、会社出たとこなんだ。遅くなってごめん。」
『ううん、会社の裏のカフェあるでしょ、オムライスの美味しい。そこにいる。』
そう言う彼女の声の向こうで軽快なジャズが聞こえる。
「じゃあ、そこにいて。」
そっちに向かう、と言うけんいちを『私が行く。』と彼女はその声を遮った。
その声の堅さに彼も頷く以外の術(すべ)はなく、駅のはす向かいのコンビニで彼女を待つことにした。
手持ちぶさたにコンビニに入ったけんいちを、店員とインターホンが出迎える。
コートのポケットに手を突っ込んだまま、ラックに整然と並んだ週刊紙の見出しをぼんやりと目で追った。
勿論、内容なんか少しも入ってこない。
こうしている今でも刻一刻と近付いて来る何かが、やはりけんいちを落ち着きなくさせていた。
特に興味の湧かない店内を巡る有線ですら、今はやけに鼓膜を揺さ振る。
再び店員とインターホンが鳴ると、北風と共に自動ドアを潜ったばかりの彼女と目が合った。
綺麗に切り揃えられた前髪を少しだけ乱し、「おつかれさま。」と唇が動く。
つられてけんいちもオウム返し、徐々に心拍数は加速する。
「とりあえず出よう。」
彼女がけんいちの腕に手をかけ、引かれる様にドアを潜り再び木枯しの街並みに戻る。
「だいぶ待った?」
「コーヒー1杯で1時間ちょいかな。」
「ごめん。」
「いいよ。それよりさ、何食べる?」
風が彼女の髪を吹き抜ける度、よく知ったシャンプーの薫りが鼻先を掠める。
数えきれない程繰り返したこの会話も、今はただ胸を騒つかせる。
「今日のお昼は定食屋さんだったからなあ。」
ねえ何が食べたい、と視線を上げた彼女と今日初めて視線がぶつかる。
「何でも。」
「いっつもそれ。」
唇を尖らせてから彼女は、あ、と呟いきコツリコツリと小気味よく響いていたヒールの音が止む。
「ねえ、話って何?」
その不意打ちに、え?としか聞き返せなかったけんいちはやはり出端を挫かれた。
「話の内容によっては、お店に入る前がいいのかなって。」
彼女のビー玉のような瞳はもうこちらを見てはいない。
「もしかしたら超高級ディナー付きの方が盛り上がる話?それとも、」
どっち?、と呟いた声は車道へ吸い込まれた。
「俺さ、」
無意識に握り締めたけんいちの掌は、僅かに汗ばんでいた。
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