たかしの背中を見送った後に頬を濡らした涙はしばらく止まることはなく、ももこはそこから動けずにいた。
呼吸するたび胸は刺すような北風で溢れ、濡れそぼった目元が乾く気配は一向にない。
大小さまざまな粒は俯くももこの瞳から取り留めも無く零れ落ち、先程の雪で淡く湿ったアスファルトに染み込んでいった。
何度か鼻を啜りハンカチで頬を拭って歩き出そうとすると、たかしの残像が脳裏を過り、その度に小さな波紋を描いて彼女の視界をみるみる滲ませた。
それからどの位そこに佇んでいたのか定かではないが、家路につく頃には寒さも増し残ったのは背中を撫でる寒気と上昇の止まらない自身の体温。
そして38度の熱を出し同窓会にも出席しないまま、ももこの余暇は過ぎていった。
1月の東京の空は酷く澄み、高層ビル郡は遥かオゾンに突き抜ける程に天へ伸びている。
ビル風はいつもの様にももこの髪やコートの裾を巻き上げて、素知らぬ顔で吹き抜けていく。
霞みのない上空には、交差した飛行機雲がゆるやかに伸びていた。
新年早々に体調を崩し、結局同級生達にも会えなかったももこもすっかりいつもの日常に戻っていた。
病み上がりの爽快感と胃の辺りが重たくなる様な淀みが、オール明けの早朝の様だった。
周りは正月ボケの抜けない温い空気を漂わせ、ランチタイムも専らその話題にも関わらず、今年のももこは正直全く正月気分ではなかった。
たかしとの一件以来すっかり何かが抜け落ちて、彼との事を知る全ての人間とのやりとりが堪らなく億劫になっていた。
それは距離が近ければ近い程、そんな時に真っ先に過るのが皮肉にもけんいちだという事も含めて、ももこは自身への嫌悪と未だ燻る後ろめたさに眩暈すら覚えた。
同窓会の晩、行けなくなった旨を知らせるメールに1番に返信をくれたたまえにすら、何の連絡もしていない。
ももこの携帯の送発信履歴はあの日のまま、上書きされることなくディスプレイの表示だけが虚しく貼り付いていた。
その日の移動中、コートの中で相変わらず震える携帯にたまえからのメールが届いた。
まるちゃん、体調よくなった?
たまえらしい文面に心臓が疼いた。
およそ7日ぶりに返信を打つ指は、寒さでおぼつかない。
連絡遅くなってごめんね、と心底申し訳なくなりそう返信した。
平日の昼間でなければ今すぐにでも電話を掛けたかった。
するとたちまち受信して、元気になってよかったとそう打たれた画面を見るなり、ももこは一縷(いちる)の迷いもなく会社の最寄りのひと駅前で下車し通話ボタンを押していた。
無機質な呼び出し音の4コール目でもしもし?、と彼女が出て、今とても聞きたかった声にごめんね、とももこは思わず呟いた。
『まるちゃん。明けましておめでとう。』
受話器越しによく似た雑踏と、彼女が笑う気配がした。
「明けましておめでとう、たまちゃん。年明けにメールくれてたのに、連絡今でごめんね。」
『いいよ気にしないで。まるちゃん、具合は?もう仕事始まったよね?』
「うん、もうすっかり。一昨日から始まったよ。何か、一気に現実って感じ。」
私もだよ、と深い溜息に続いてやっぱり彼女が微笑む。
『まるちゃん今は?移動中?』
「うん。たまちゃんは今日休み?」
都内の保険会社で事務をしているたまえが、平日のこの時間にメールをくれる事がそもそも稀だった。
『私ね、今日午後から有給貰ってたの。』
そう声を弾ませるたまえに、ももこはいいなあと唇を尖らせた。
電波に乗ってたまえの微笑みが伝わってくる。
控えめに、だけどももこの胸中なんてお見通しといわんばかりの柔らかさで。
『まるちゃん、また予定とか合わせてご飯行こう。沢山話したいことあるし。』
「うん、また連絡するね。」
そう言って携帯を耳から離し、切りぎわにふとももこが思い出したのはあの雪の日。
たまえに伝えたかった、きっと彼女ならいつもと変わらない優しさで、ももこの話をただひたすら頷いて聞いてくれる。
この石のように体内に沈む塊を、彼女なら少しでも解してくれるだろう。
そう思った瞬間、堪らなくなってももこはたまえを食事に誘っていた。
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