コーヒーショップの自動ドアを抜けたら最後、たかしと過ごした凡そ2年の月日が流れて行く。
たかしは自分のカップを空にしても尚ももこが飲み終えるまでは、とそこに居てくれたが実際は半分も飲み切れず、マキアートはすっかり温くなっていた。
優しくて誠実なたかし。
彼はやはり強い眼差しでこちらを見つめていた。
この席を離れる瞬間だって、きっと彼はももこに委ねてくれる。
「ありがとう、たかしくん。出ようか。」
口の中が酷く渇いていた。
どうしようもない程に胸の奥が渦巻いて、そう絞りだすので精一杯だった。
「うん。忘れ物ないようにね。」
そう立ち上がったたかしが、ソファーに掛けたブルゾンを手にした。
ほんの数ヶ月前2人で出掛けた際に買ったアーメンのブルゾン、そのオリーブ色はすっかり見慣れた物になってしまった。
一歩また一歩と終幕に向けて進んでいくたかしの背中は、本当に本当に暖かった。
息が詰まる程苦しいのに、その背中を見つめても不思議と涙は溢れなかった。
ただ残ったのは2度も彼に別れを告げさせた罪悪感と、昇華されていない想い。
「ねえ、たかしくん。」
「なに?」
「聞いてもいいかな。」
「うん。」
「どうして私が、大野くんを意識してるって思ったの?」
どうしても聞いておきたかった。
けんいちに対する今後の振舞いを考える上でも、どうしても知っておきたかった。
「意識してるっていうか。さくらが大野くんの車から降りてきた晩、あの晩車から降りてきたのがさくらだって分かったんだ。で、さくら車が見えなくなるまでずっと見送ってて。その顔が何だか不安そうだったんだ。不安そう、仕事に行く主人を見送る飼い犬みたいな。」
心許ないような、僕とさくらが朝別れてそれぞれ働きに行く時。
きっと、僕も同じ顔でさくらを見てた。
焦がれる背中を見送る、それは切ない儀式。
たかしの声はどこも尖ってなんかいないのに、その一言一言は小骨のようにももこの胸にちくりと刺さった。
「だから、相手が大野くんだって聞いた瞬間。何だか不思議とさくらとは一緒に居られない予感がしたんだ。さくらは間違いなく僕から離れていく、例え大野くんのとこに行かなくても僕からは確実に離れて行く。だから、さくらに言われる前に僕からさよならしたんだよ。」
さよならした、つい今しがたの出来事をたかしはすっかり過去へと切り替えられていた事で、ももこはもうそれ以上何も問い掛ける事は出来なかった。
自動ドアが開いた瞬間の空気の冷たさに、改めて冬の厳しさを思い知る。
ただのごっこ遊びの恋愛だと、人はももこを嗜めるかもしれない。
若い内だから沢山恋愛をしなさい、とも。
どんな形であれ例えそれを笑われても、確かにたかしを好きだった。
朗らかで麗らかな日射しの様な彼を心底好いていた。
そして、そんな彼を隠れ蓑にしてけんいちへの気持ちに蓋をしようとしたのもまた事実。
「明日の同窓会、本当は出席しないんだ。」
息が白く霞み風に流されていく。
「どうして?」
「本当は元々仕事なんだ。だから僕はこれから新幹線で東京に戻る。」
「たかしくん、初めっから決めてたの?」
この話をするってこと、と問い掛けるももこの唇は既に感覚を無くしていた。
「さくらの顔みたら、何度も決心鈍りそうだったよ。」
こんな時でも彼の微笑みは春風のような柔らかさで、ももこの胸に刺さる小骨が酷く疼いた。
「素直になった者勝ちだよ、さくら。人生なんてそう長くないんだ、こうしてる今だって人の気持ちなんて変わるし、上手くいく事もいかなくなる。僕、本当に大丈夫なんだ。また何度だって恋愛したいって、心底思ってる。好きだよ、思い出すだけで前を向けるくらい。きみが好きで、大好きだったよ。」
きみが僕を好きだった事が、僕の自信になってる。
北風に千切れた言葉がももこの耳に届く頃、たかしの背中は雑踏に紛れ見えなくなった。
ほんの数時間前まで恋人だった彼は、あの人混みに帰っていく。
明日からは見つけることも出来ない、肩先をすれ違うだけの群衆に紛れていく。
肉親以外でこんなに想われた記憶は一度だってない。
口にすると容易くてむず痒いけれど、彼から貰っていたのは紛れもなく春の日差しの様な愛、だった。
相変わらず空からは埃のような雪が降り注いで、ももこの睫毛や鼻先を掠めていく。
たかしは最後の最後までももこを責めたりはしなかったし、決して誰の所為にもしなかった。
それが逆に記憶をより鮮明に焼き付けた。
また何度だって恋愛したい、と笑って別れたたかしが過りももこは、そこで初めて涙が溢れた。
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