けんいちはすっかり出端を挫かれていた。
地元での同窓会はある意味ひとつの覚悟を胸に挑んだものの、件の会合にはももこはおろかたかしすら現れなかったのだ。
その会場で彼女の友人から「まるちゃん熱出しちゃったんだって。」と聞かされ、肩を並べて歩く2人を目の当たりにせず済んだことに安堵し、同時につくづく噛み合わないタイミングに溜息を吐いた。
新年早々、そんな出足に憂鬱すら覚えた。
そんなけんいちも会社が始まれば徐々に余裕もすり減り、その事で頭が一杯というわけにもいかなかった。
本年度仕入れ枠の見直し、予算組み、新しく入る社員へのフォローアップ研修、大阪と東京は春までに3度往復する予定で、先の手帳はほとんど真っ黒だった。
そしてもう1つ、その隙間を縫ってでも押さえておきたい予定があった。
今朝、社屋のエントランスで目が合った彼女。
去年の暮れ、八重洲口で見送られてからまだ1度も会っていない。
電話とメールのやり取りで繋がってはいるものの、けんいちの中でさとしと交わした言葉達は大きく飽和し最早パンク寸前。
そうなった今、しなくてはいけない事が何かは明確で寧ろ、けんいちは不思議と爽快だった。
彼女と過ごした3年余りの日々が脳裏に駆け巡ると思わず下唇を噛んでしまいそうになったが、今のままで居られる筈もなくそれだけの時間を共有して来た彼女とだけは、これ以上誤魔化しながら付き合い続ける事など出来なかった。
16階の喫煙ブースから眺める東京の街はすっかり見慣れた物になった。
もう何度ここで、煙草をくわえながら飛行機が白い線を引く様を眺めたか分からないし、今ではそんな眼下に広がる街並みに同じく寝起きし働く誰かを思い出している。
初めて恋をしたあの頃とはけんいちもすっかり変わっただろうし大人になった、それと同じ様に同じだけ大人になった誰か。
赤玉色したボブヘアの、それとよく似た笑顔を見せる彼女は鮮やかにくっきりとけんいちの胸にこびりついていた。
スーツの内ポケットが震える。
3分の1程燃え尽きた煙草をファンに近付けながら、胸元を探り鳴り止んだ携帯のディスプレイには新着メールの表示。
今日、夜飲み会?
ご飯食べよう。
そうメッセージを寄越してきたのは今このビルのエントランスで、そつなく笑顔で来客を迎えている彼女。
年明け前には胸上まであったチョコレイト色の髪は、肩のラインでぱっつりと重たく切り揃えられ、以前は右に流す仕草を見せていた前髪も瞼の上に収まり随分と年相応の笑顔になっていた。
それも彼女が電話で自己申告しなければ、けんいちはすぐに気付けたのだろうか、携帯を眺めながらそんなことを考えた。
言葉にならないまとまらない、だけど取り留めもなく溢れるそれを杉山は恋だと言った。
こい【恋】相手を自分のものにしたいと思う愛情をいだくこと。また、その状態。
この年にもなっていまいちピンとこないけんいちは、国語辞典を引いたりしてみた。
その大まかさに更に疑問は増し、柄にも無くTSUTAYAでフランス映画なんか借りて見たがその全ては咲き乱れる春の様な輝く日々を綴っていたり、それを恋と呼んでいた。
けんいちの感じているそれとは遥かにかけ離れている。
懐かしいような苦しいような時々眩暈の様な動悸を伴う感情だ、到底心地よいものではない。
それでも今度は最後の最後まで貫きたいと思ったのだ。
いいよ、飯食おう。
ちょうど話したかったんだ。
ボタン1つで電波に乗せた決意は飛んでいくが、積み上げた関係を崩す事は容易くなどない。
きっと彼女は泣くだろう。
酷い奴だと罵るかもしれないし、歯の1つや2つくれてやる位の覚悟が必要かもしれない。
煙草を揉み消し背筋を伸ばす。
だらしなく緩めたネクタイも元の定位置へと締めなおした。
うんざりするくらいのエゴイストだ、誰も彼も何より自分自身が。
しかしいっそ視界は晴れた。
けんいちは霞む程の空に目を細めた。
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