きみを知ってる、この気持ちをなんて呼ぶのかも。
空っ風(からっかぜ)が吹いた。
ボールを追う俺の髪も、きみの歓声も、全てを巻き上げて。
そんなことないよ、とまるこが笑っている。
他愛もない話なんだろう、聞こえる声が心地良かった。
まるこの笑い声の聞こえる教室が、俺には日常になっていた。
「違うよ、そんなはずないじゃん!」
教室中辺り一面にその声は響き渡り、無関係のよそのクラスメイトも目を丸くしてまるこを眺めていた。
さっきまで笑っていたまるこが声を荒げ、俺は思わず読みかけのジャンプを閉じた。
杉山は身を乗り出してその一部始終を拾おうと必死だった。
原因は至って明解だった。
『金持ちだからだろ?』
誰かが花輪にそう言った。
まるこはセーラーの袖を握りしめ、顔を歪めた。
あんなに哀しい顔をする女を、17年の人生で俺は初めて見た。
俺は、そんなまるこを綺麗だと思ってしまった自分に愕然とした。
花輪がバイオリンのコンクールでグランプリを取った。
全校で注目され、表彰され、当然注目の的になった。
前々から金持ちで賢い花輪は、目立つ存在だったけど。
羨望、嫉妬、いずれにせよ出る杭は打たれる、どの世界でもきっと『そう』なんだ。
みんながみんな花輪のグランプリに称賛するわけじゃない。
まるこのようにまるで自分のことのように心底喜ぶ奴もいれば、まるこを怒らせたクラスメイトのように吐き捨てる奴だっている。
あのまるこが唇を噛んで顔を赤くしている。
教室の四隅までが、ピリピリと静まり返っていた。
「知らないくせに。花輪くんのがんばってるとこ、知らないじゃん。」
いよいよ震えた声で、まるこは呟いた。
「さくらくん、ありがとう。」
まるこの肩を優しく抱くように、花輪が笑った。
「そうだ、今日のお昼は一緒に食べよう。ヒデじいがおいしいクラブサンドを作ってくれたから。」
そう言うと、二人は教室から出ていった。
パタンと戸が閉まると、それを合図に女子の黄色い声が響き渡り、杉山と俺は顔を見合わせた。
「大野。」
乾いた秋風に横っ面を吹かれた。
「いいのかよ、あれ。」
いつもの茶化し口調じゃない杉山。
前から薄々感じていた。
まること花輪には、好きとか惚れたとか関係ない。
他の誰も割り込むことの出来ない“何か”があるのかもしれない。
そう思うだけで、俺は何だか泣きたい気持ちになった。
***
花輪くんを悪く言った。
誰よりも何よりも、人一倍努力している花輪くんを、悪く言った。
そのことが、どうしたって許せなかった。
静まり返った教室を、花輪くんに連れられて後にする瞬間、驚いたように立ちすくむ大野くんがいた。
目を丸くして、なぜか大野くんが今にも泣き出しそうに見えた。
ヒデじいのクラブサンドは、ものすごいボリュームだった。
トマトにハム、レタスにキュウリが溢れんばかりに詰まっていた。
涙が出そうになるくらい、美味しかった。
私は花輪くんと屋上で食べた。
私がそれを顎が痛くなるくらい目一杯頬張ると、花輪くんは思わず吹き出した。
「ありがとう。さくらくん。」
花輪くんは眩しそうに笑ってそう言ってくれた。
「何がさ。あんなの、向こうがいけないんだよ!」
花輪くんが毎日毎日どれくらいの時間をバイオリンに費やしてきてのグランプリかなんて、ちっとも知らないくせに。
『金持ちだからだろう?買収とか、賄賂とか。そんなの有りなんじゃねえの。』
そんなことを弾みでも冗談でも、私には許せなかった。
だって、花輪くんの掌、弦を押さえる指はすっかり硬くなっている。
それに知らないでしょう、花輪くんがどんなに素敵なバイオリンを弾くかなんて。
「花輪くんの腕は、ヒデじいや私が保証する。」
そう言うと、肩を竦めて花輪くんは笑ってくれた。
だって本当にそうなんだ。
花輪くんのバイオリンは、音楽に詳しくない私にだって、“いいもの”だと分からせてくれる。
そう、緑の木漏れ日みたいな。
初めて花輪くんのバイオリンを聞かせてもらった日、私の目にはライスシャワーが降って見えた。
「さくらくんはいつだって、僕を助けてくれるんだね。」
「当然だよ。私達、友達じゃん。」
彼は薄く目を細め、それは穏やかに笑っていた。
柔らかな秋の陽射しがざわざわと、花輪くんと私を包んで揺れた。
花輪くんの通った鼻筋には小さな影を落とした。
高校生になってからも花輪くんは相変わらず優しかった。
気さくに私を家に呼んでは、お茶やお菓子をご馳走してくれる。
私は花輪くんといることがとても心地良かったし、花輪くんも楽しいと笑ってくれた。
「さくらくんは僕に優しいけど、でも。」
花輪くんが真っすぐに私を見て呟いた。
「でも?」
「僕に気持ちが向いているわけじゃあ、ないんだよね。」
私は首を傾げた。
花輪くんはなんでもないよ、と目を伏せたけど。
その声は吹き抜けた木枯らしに吹き飛ばされて、私の耳には届かなかった。
***
僕は狡(ずる)い。
さくらくんの気持ちも、彼の気持ちも知った上で尚まだ、知らんぷりをする。
ただの悪あがきなのに。
昼休みが終わり、僕らは教室に戻った。
さくらくんは何事もなかったように笑っていた。
大野くんだけがいつまでもさくらくんのことを心配そうに見つめていた。
その視線を知っていたのは、やっぱり僕と彼の親友だけだった。
鰯雲がさらさらと、傾きかけた秋空に流れていった。
「まるこ、大丈夫か?」
休み時間に入るやいなや、大野くんはさくらくんの元に駆け寄りそう尋ねていた。
「何のこと?」
「いや、さっき。」
そう言い淀む彼の視線がどこと無く心許なかった。
「私は大丈夫だよ。私が何かしたわけでもないしね。」
けらけらと、明るい笑い声が聞こえてきた。
大野くんの問い掛けに頬を赤らめる彼女から、僕は目を背けた。
嫌でも気付かされてしまう。
彼女は彼を思っていて、彼も彼女を思っていること。
だけど僕はそれを絶対口にしない。
言葉にしてしまうと終わってしまうから。
そこで僕の気持ちは終わってしまうから。
だからやっぱりそんな僕は、狡い。
二人を横目に一人、僕は静かに目を伏せた。
「花輪。」
大野くんの張りのある声に顔を上げると、秋闇の中でいやに真面目な顔をして僕を見ていた。
「何か、用かい?」
努めてひょうきんに、僕は答えた。
「俺、おまえのバイオリン聞いたことないけどさ。おまえだったら、上手に弾くんだろうなって思うよ。」
「突然どうしたんだい?」
「今日一日ずっとそんなこと考えてた。」
大野くんは、僕の隣に腰を下ろした。
「さくらくんのことかい?」
しまった、と僕は心の中で舌打ちした。
「分かる気がする。まるこがおまえにいつまでも、変わらず懐いてるのが。」
並びの綺麗な歯を見せて大野くんは笑った。
ああ、やっぱり彼はかっこいいんだと心底思い知らされた。
「おまえなら、もしおまえなら。まることそうなっても他の奴よりずっとマシだと思うんだ。そりゃあ絶対悔しいだろうけど。花輪なら、まるこが万が一選んだ奴がおまえだったとしたらきっと俺、笑ってると思う。」
それは僕の台詞だよ。
ああ、悔しいな。
きみはどんなときだって僕の上を行こうとする。
フェアじゃない僕を、責める術すら知らないんだろう。
大野くんなら言うはずだ。はっきりと、力強く、さくらくんに対する想いを。
僕はどうするだろう。
大野くんのようにストレートに伝えることなんかできないだろうな。
だけど、僕は字が下手だから手紙にしたためることもできない。
だからせめて。
「大野くん、君に“いいこと”を教えてあげるよ。」
明日になれば、さくらくんと大野くんは前以上に意識してぎくしゃくしてしまうだろう。
それだけ距離は縮まるけれど。
結局僕も、決して大野くんを嫌ってなんかいないんだ。
窓の向こうで紅に染まった葉が舞っている、早熟の秋に、僕はその日1番の笑顔になった。
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