雪崩れ落ちた先は、酷く切ない匂いがした。
食いしばった奥歯にはまだ鈍い痛みが残って、私が変わってしまった事を嫌でも思い知らされた。
湯を張ったバスタブの中、纏わり着く湯気に肌を晒しながら目を閉じると切なくなった。
今日は私が、私を脱ぎ捨てた日だ。
もう、何度も想像した。
いつかは訪れるその瞬間に胸は張り裂ける程高鳴り、血脈は溶けるほど熱くなった。
しかし現実は予想を遥かに越えて、こないだまで脳内を占めていたロマンチストは白旗を挙げて逃げ去り、やがて現れたのはリアリストの柔らかで熱烈な洗礼だった。
恋をすると必ずやってくるその瞬間を、わたしは彼の部屋で迎えてきた。
幼馴染みの彼と恋人になって、そう経ってはいない。
過ごした時間はかなりの年月で、しかし異性として触れあうにはまだおぼつかなった。
現に今日、彼は言った。
「さくらとこんなことになるなんて想像もしてなかった。」
まったく、それはお互い様だ。
「私は大野くんが男の子なんだって、思い知ったよ。」
そういうと、酷く怪訝な顔をしていた。
「さくらは、最初からちゃんと女だったよ。」
どういう意味かさっぱりで、とんだロマンチストスケベだとからかうと色気も何もあったもんじゃない、ベッドから転がり落ちるまで揉み合いになった。
だけど、途切れ途切れの息の間で彼が「ああ、好き」と呟いた声が、とんでもなく甘く苦く響いて、私を訳も無く泣きたい気持ちにした。
かと思えば反面、証拠隠滅に躍起になる素振りを見せたりなんとまあこんなに落ち着かない彼を見たのも初めてだったのでそれは高みの見物とした。
今晩はもう使い物にならないシーツを纏める彼に、「なんて言い訳するの?」と問えば「自分で洗う、年頃だし察してくれるだろ」と存外開き直った様子だった。
いつの間にか手早くTシャツを身につけた大野くんの逞しい背中を眺めながら、今日の出来事はきっと生涯誰にも話すことはないけれど。
こんなにも女に生まれた事を、悔いたり嘆いたり愛しかったり嬉しかったりした日は二度と来ないのだろう、そんな事を考えた。
「痛かったなあ。」
湯気が立ち込める浴室でひとり、膝を抱えながら息を吐く。
お世辞にも平気だったとは言いがたい痛みと違和感、歯医者すら泣きわめく私がよくもまあ耐えれたものだ。
愛しい気持ちと幸福がせめぎ合う、悦びには程遠くて、もがきながら夢中で抱き締めた大野くんの熱を思い出すと、胸が焼ききれる程切ないのだ。
堪らなく、切ないのだ。
この青臭い体温を共有してしまった私たちは、明日からどんな風に過ごすのだろう。
昨日の自分とは間違いなく変わってしまった、その膝を抱いてバスタブの中、私は声を殺して泣いた。
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