大人になること。
低空飛行のヒコーキは、今にもすれすれのビルの谷間を、うまくうまくすり抜けていく。
俺はどうして、そうはいかないんだろう?
木枯らしの街に、ようやく柔らかな陽射しが差し込むようになったのは、二月の末だった。
街路樹の葉は相変わらず散ったままだったけれど、そこに冬の冷たさは感じられない。
そんなことにすら気付けないほどの雑踏の中に、けんいちはいた。
大野けんいち、今年で二十一歳になる。
都内の国立大に通うため、陽当たりの良いファミリーマンションを出て、大学の傍のワンルームで1人暮らしをしている。
楽しくお酒を飲みに行ったり、食事を食べに行く人は嫌とゆうほど近くにいるけれど、現在彼女と呼べる存在はいない。
仲間に呼ばれれば、他校との合コンにだって出かけるし、その中に少しでもいいなと思う子がいればデートを重ねた。
女の子はみんな、けんいちに優しくて、どこまでだって尽くしてくれる子もいた。
背丈は平均よりも僅かに高く、顔のパーツも一つ一つが納まるべき場所に納まっていて大学でもサッカー部に所属しているけんいちは、どこからどう見ても異性にはかなり魅力的だった。
けれど、誰一人長くは続かず、いつだってけんいちはどこかぽっかり空いた穴を手探りしていた。
スクランブル交差点に阻まれ足を止めた。
今まさに、試験の真っ只中で今日がその最終日に当たる。
昨夜ギリギリまで叩きこんだイタリア語が、頭の中でぐちゃぐゃに入り乱れている。
けんいちは、小振りのメッセンジャーバックを斜めに掛け直すと、iPodのディスプレイに視線を落とした。お気に入りのユーロビートが流れている。
音量を合わせると、ジーンズの左のポケットにしまった。
交差点が青に変わる。
四方八方から人波が押し寄せる。
それをいつものように肩越しにかわしながら、目標の場所までけんいちは進む。
ふ、と。
横目に捉えた人物に、思わず振りかえる。
小柄な体型に、柔らかなボブヘア。
大きなデザインバックがひどく印象的だ。
もしかして、とけんいちは度々思う。
いつの頃からか小柄でボブヘアの女の子を見ると、その腕をつかんで振り向かせたくなる衝動に駆られるようになっていた。
目を合わせて、顔を確かめてみたくなる。
その度に、やり場のない手のひらを右のポケットにしまってきた。
そんなけんいちに構うことなく、人ごみはその背中をあっさりと飲み込んでしまった。
「なあ!今日の打ち上げ、もちろん大野参加だよな!」
だだっ広い講義室の端から学籍番号順に並べられながら、けんいちは「もちろんオールだろ?」と、山びこに返すように答えた。
思いのほか反響してしまった声にチクチクと視線が集まり、居たたまれないけんいちは相手に向かい『ば』と『か』をつぶやいた。
着席のベルが鳴る。
頭の中は相変わらず、イタリア語が大渋滞気味だ。
こうゆうときに、ふと思い出すのは、今朝見たような柔らかなボブヘア。
やばいな、まだ。
かき消すようにけんいちは、真っさらな答案にペンを走らせた。
***
かけがえのないものを、なくしてしまったのかもしれない。
そんな渇ききれない思いを、けんいちは抱えて大人になる。
高校三年の春、それはあまりにあっさりと終わりを告げた。
さくらももこはけんいちの目を真っ直ぐ捉えると、怯(ひる)むことも臆することもなく、『お別れだよ』とつぶやいていた。
春だというのに、つむじ風が吹きつけて校庭の桜をほとんど巻き上げてしまっていた。
それから何事もなかったかのように時間が流れた。
夏期講習の帰り道、炎天下の滲んだアスファルトで友達とはしゃぐ彼女とすれ違った。
もう、あの笑顔がけんいちに向けられることはない。
「さくら、俺達付き合おう。」
生まれて初めての告白はよく覚えていない。
あまりの緊張と滲む汗。
付き合おう、の一言がやっとだった。
『天下の大野けんいちも恋愛になったらカタなしだな』と、けんいちの親友は笑い飛ばした。
天下など取った覚えなんかなかったが、そう揶揄われても上手くあしらえない程の切迫感だった。
それほど彼女に恋しているけんいちは滑稽だったのだ。
「うん、付き合おう。」
そう頷いた頬は薄桃色で、肩の上で綺麗に切り揃えられた髪が照れくさそうに揺れていた。
全てが幸福で満ち溢れていた。
茜色の陽射しのした、初めて繋いだ指先にその後重なった視線、唇。
目と目、手と手。
甘くて柔らかでけんいちは目が眩んでいた。
だから気付けなかった。
ももこがさよならを選んだ訳も、そこまで追い込んだのがけんいち自身だったことも。
あれはやっぱり高校二年の二学期。
ちらほら赤みを帯びた木々にまぎれて、耳まで真っ赤なももこがいた。
校庭のすみ、焼却炉の前でただ佇(たたずむ)背中が泣いているのは明らかだった。
「どうしたんだよ、さくら、何かあった?」
そんな姿を偶然でも目にしてしまったら、けんいちが問い詰めずにいられるはずもなかった。
「何って、何が?ええ、どしたの大野くん。」
「何っておまえが何だよ!おまえ、泣いてたろ?」
不思議そうにけんいちを上から下に眺めたあと、ももこはけたけたと笑い出した。
「やだなあ、焼却炉の煙に目がしみたんだよ。」
大袈裟なんだから、とももこがいつものように笑ったから。
あの焼却炉で燃えていたのが彼女の教科書だったりだなんて、このときのけんいちは知る由もなかった。
ちょうどこの頃、けんいちはやたらと積極的な後輩に頭を抱えていた。
サッカー部のマネージャーで、黒目がちな瞳が印象的な子だった。
いくら鈍感なけんいちでも、その子の気持ちには気付いた。
それでも、けんいちにはももこがいたしその子とどうこうなんて、微塵もなかった。
ただ、ももことは違うその子の大胆さや、予測不能な一挙一動にどぎまぎさせられた。
そんな矢先だった。
ももこが下級生に手を上げて騒ぎになった。
秋雨の後のぬかるんだ校舎裏、泥まみれの上履きと涙まみれのももこは、今の一度も見たことのない姿だった。
その傍らで、三人の下級生の一人が頬を押さえ泣きじゃくっていた。
よく見るとあの子だった。
サッカー部のマネージャーの、けんいちに思いを寄せるあの子。
ももこは彼女の親友に肩を抱かれ、ようやく歩き出すところだった。
「さくら、どうしたんだよ。何があったんだ。」
その光景を把握できずにいるけんいちは、横切るももこの腕を掴んだ。
「何でもないよ、大野くんは関係ない。」
「この状況で関係ないわけないだろ!」
「関係ない!」
思わず荒げた声にけんいちは言い淀(よど)んだ。
「まるちゃん、ずっと嫌がらせされてたんだよ。大野くんと別れろって、もう二ヵ月近く。」
ももこの肩を支える彼女の親友の言葉に、けんいちは目の前が真っ暗になった。
「たまちゃん、いいよ。もうケリ着いたんだし。」
そんな漫画のような、ドラマのような出来事が実際に起こるのだろうか。
「何で、何も言わなかったんだよ?」
ももこの頬に残る涙の跡が目に飛び込んできた。
悔しいような、情けないようなやりきれなさでいっぱいだった。
「言えないよ、これは女同士の問題だもん。」
「何だよ、それ。そんなんでおまえはずっと隠れて泣いてたのか?ずっと、俺に隠して。」
喉が焼けるほど熱かった。
本当に情けなかった。
一体自分は何に浮かれてたんだ。
あんなにまぶしかったものは、今はただの目眩(めくら)ましに過ぎなかった。
「なあ、俺ってそんなに頼りない?」
けんいちの声が宙を舞う。
「違う、大野くんが頼りないとかじゃない。」
「じゃあ、どうして、」
「私が無理になったんだよ。おとなしく守らることも、ただ耐えることもできなかった。」
ももこは目を合わせようとはしなかった。
「俺、嫌だぜ。さくらと別れるなんて、考えらんない。」
「大野くんのしたいようにしたらいい。」
その一瞬、かっちりと合わせたももこの目は真っ赤だった。
彼女はそれから、ただの一度だって振り返りはしなかった。
ももこがなぜ下級生に手をげたのか、後になって風の噂でけんいちは知ることになる。
あの日、ずっと嫌がらせをされていたももこはようやく割り出した犯人に直談判しに行ったらしい。
『好きなら好きとけんいちに告白したら』と。
それでけんいちがあなたを選んだのならそれは仕方のないことだ、と。
それでも向こうは三人で、寄ってたかって別れろと詰め寄った。
『大野先輩だって、なんでこんな人がいいのかわかんない。なんか、あなたに振り回されてる先輩なんてカッコ悪い。』
次の瞬間にはももこがその子の頬を張っていた、と言う。
けんいちは堪らなくなって目を伏せた。
そんな出来事から三ヶ月が過ぎ別れることも元に戻ることもできず、曖昧なままけんいちとももこの間にはただ時間だけが過ぎて行った。
季節はすっかり移り変わり、高校生活も残すところ一年になっていた。
「大野くん、お別れだよ。」
そんな宙ぶらりんな関係に終止符を打ったのは、やっぱり彼女だった。
「私、高校卒業したら東京に行こうと思うんだ。だから、ね。この一年が正念場ってゆうか、うん。恋してる暇なんかないってゆうか。」
ももこの目に涙が滲むのを、けんいちはぼんやりと眺めた。
空っぽな会話が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
「なあ、さくら。俺といると辛かっただろ?」
ももこが一瞬、体を固くした。
「ごめんな、いっぱい泣かして。きつい思い、いっぱいさせて。」
むせ返る桜の中小さな背中が震えていた。
「さよなら、大野くん。」
***
あれから三年。
けんいちは東京にいる。
ももこが東京にいるかは定かではない。
もしかしたら、東京じゃないどこか別の場所で暮らしているかもしれない。
そういえば、彼女は絵がすごく上手かった。
それを生かした仕事を目指しているかもしれない。
明日になればまた、けんいちは小柄なボブヘアに足を止めるだろう。
今だ冷め止まぬ、ももこへの気持ち。
いつまでも、けんいちの胸の奥の奥でくすぶりつづけている。
いつもの朝。
いつもの人混み、スクランブル交差点。
今日もまた見かける、小柄で柔らかなボブヘア。
「あ、ごめんなさい!」
肩がぶつかった。
この大都会、肩がぶつかるくらいで誰も謝ったりしない。
何気ない新鮮さを感じて、思わずけんいちも振り返った。
あの日のさよならが、じわりと蘇る。
だけど不思議と、胸の痛みはない。
「久しぶりとか言いたいけど…、なんかよくわからない。」
けんいちは途切れ途切れになる言葉を、必死で繋ぎ合わせようとした。
「運命だね!」
あの頃、けんいちが大好きだった笑顔で彼女が叫ぶ。
「かわんねーな、さくら。」
愛しい、恋しい。
どんなに思っても、戻らないものは戻らない。
だけど。
もしも、もしも奇跡が起こったとして、もう一度があったのなら。
「今度こそ泣いたって叫んだって、手放してやらないんだ。」
突き抜けるオゾンの下。
そうつぶやいた声は、確かに響いていた。
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