二人を乗せた車が首都高用賀(ようが)を上がってから横浜町田まで本当に一瞬だった。
そんな短い時間で彼は2度窓を開け煙草を吸っていた。
ももこが吸う量増えた?、と尋ねればうんと曖昧に濁され、風に千切れていく彼の煙草の煙すら見ているだけで何だか苦しかった。
いつの間にかけんいちの煙草の薫りが染み付いている、街中で同じ銘柄のその薫りに振り返ってしまう程。
あっという間に高速を滑り降りると、山下公園界隈のパーキングに車を入れた。
車のドアを施錠する音を確認するとけんいちが肩越しにももこを促したので、やや小走りにその隣へと近付いた。
そこで漸くけんいちの全身を眺め、彼が視線を集める引力に長けている事に改めて気付かされる。
均一にバランスの取れたパーツは言わずもがな、今日だってワンウォッシュのジーンズにシャツ、それにダウンベストを羽織っただけ、そんな出立ちの成人男性なんてごまんといる。
それでもすれ違う女性グループの視線が囁き声が、ももこの耳に絶えず飛び込んでくるのだ。
道すがらのウィンドウに映る自分達を横目に捉え、ももことは有に1頭身以上違うけんいちの横顔から思わず視線を逸らし、少しだけ高めのヒールを履いてきて良かったと心底思った。
そんなももこを余所に、けんいちは横浜港からの海風にさむっ、と肩を竦(すく)めている。
埠頭の方まで行ってみるか、とけんいちの問いかけに半歩遅れの返事をしたももこのちょっと面倒くさい、のニュアンスに呆れながらもやはり笑っていた。
休日の横浜はやはり人出で賑わい、国内外のツアー団体や近郊から同じ様に訪れたと思われる2人連れでメインストリートはごった返している。
ももこ要望の通り、メインストリートから1本入った筋の中華レストランでの昼食となった。
「で、さくら、年末年始は風邪引いて同窓会にも出られず。何してたの?」
メニューも全て決まり、おしぼりで手を拭いながら皮肉も込めたいつもの様子でけんいちが尋ねた。
今日けんいちと出かけると決まった時から話題に出ることだと構えても、条件反射の様に背筋が伸びる。
ももこは手元のおしぼりを四つ折りにすると右側に置き、そうなんだよ年明けから散々だよ、と唇を尖らせた。
「楽しみだったんだけどな、皆に会えるの。」
そういう場でなければ会えなかった同級生が沢山いる、色んな場所で色んな環境で同じ様に暮らす人達に会いたかった。
「穂波から、さくら来れないって聞いた時、本当あいつ何してんの、って空気だったもん。」
悪びれ無く淡々と告げるけんいちにちょっとだけばつが悪いももこ、向かい合った円卓の会話が胸を騒つかせながらジャスミンの湯気が漂う白磁の湯呑みに唇を寄せた。
その湯気の向こうで同じ様に湯呑みに口を付ける彼と自分はどうなりたいのだろう、恋人がいる彼と。
レストランを後にした2人に海風が吹き付けて、ももこの前髪を撫で通り過ぎた。
そのせいで跳ねた前髪を笑いを堪えながら整えてくれたけんいち、今日の彼はいつも以上に本当によく笑うのだ。
風は冷たいが日射しが柔らかい、春だってそう遠くはない、彼が優しい。
前髪を整えてくれた指先が触れた額が熱い、けんいちを隣にしているのにこんな穏やかな心持ちは初めてだった。
それと同時に泣きたくなる位、彼に惹かれている自身を痛い程思い知らされた。
「なあ、どうする。せっかくだしもうちょっと中華街散策してく?」
目的は果たした、けんいちに問われてももこは一瞬怯む。
「そうだね、私も横浜久しぶりだし。」
「それか、プラネタリウム。」
リベンジする?と彼が傾(かし)ぐ。
ももこは目を丸くした。
それはいつかのほんの戯れ言から始まったプラネタリウム、その日には叶わなかったがまた来ようの約束が果たされるなど本当に微塵も思っていなかったのだ。
「うん、プラネタリウムがいい。リベンジしたい。」
「な、俺もリベンジしたい。」
口の端をやや上げて笑う、それが彼の癖なのだと今気付いた。
そうと決まればと2人はパーキングに向かって歩き出した。
「横浜はどこにプラネタリウムあるかな?」
ももこが上機嫌に訪ねる。
「横浜?横浜は知らない。」
「カーナビ見たら一発か。」
「え、リベンジだぜ?」
中野ZERO、と同じ様なテンションで言うけんいちが可笑しかった。
「まじかー。大野くん、負けず嫌い。」
「おう、泣き寝入りはしない主義なんだ。」
再び乗り込んだ車内でカーナビを中野に設定して、けんいちがブレーキを上げれば音声ガイドが始まる。
車は白々とした木陰を滑る様に右に折れ来た道を戻る為インターを上がった。
車内のデジタル時計は午後3時、混みだすまでまだ少しある。
滑る様に進む車内の中でけんいちが、なあ、と言う。
「さくら、たかしと別れたんだな。」
ハンドルを握る節張った手。
触れたくて触れたくて堪らないそれに、たかしが過る。
「あ、杉山くん?」
「又聞きした。」
「いいよ、今日会ったら言おうって思ってたし。それに話題として出るかな、と。」
薄々予感はしていた。
「そうなんだよ、別れちゃったんだよ。何かさ、別れちゃったら案外あっさりで。」
車内に漂うのはからきし明るいももこの声と、場にそぐわないリクエストチューン(確かジャパニーズレゲエ)。
「付き合ってたのも夢みたいで。」
さすがに涙は出なかったが心の隅が萎(しぼ)んだ。
「あ、でももう大丈夫。悪いのは私だしね、たかしくん最後までとっても優しかったし。」
つらつらと口を吐(つ)くその言葉に重さも厚さもない、なんて容易い言い草だ。
「悪いのは私って、さくらが?」
「うん、私。きっかけを作ったの。結局、何も自分で決められなかったんだ。」
ふうん、と相槌を打つけんいちを目の端に感じる、彼は一体どんな表情なのかがどうしようもない位気になった。
「なあ、さくらは今でもたかしが好き?」
今日は本当に想定外の言葉が彼から発信される。
「好き、だよ。うん、でも。ちょっとずつ変わってしまってる気もしてる。本当は、自分でもまだ良く分からない。」
嘘だ。
何てみっともない嘘。
本当は目の前の貴方に心奪われ、それをたかしに感付かれたのだと言ってしまえばよかったのに。
せめてもう今は違う誰かを想っている、と。
それが出来ないのはやはり燻る罪悪感なのか、とにかく真っ直ぐに頷けない自身にももこは唇を噛んだ。
「良く分からないか。」
「うん。」
「なあさくら、俺もさ実は別れた。」
「え。」
「彼女と別れた。だけど、ちゃんと分かってる。」
相変わらず正面を見据える彼の表情が読み取れない。
「何が、分かってるの。」
恐々尋ねるももこに、一瞬こちらに視線を送ると、何がって、と笑う。
自分の気持ちに決まってる、と。
「俺ね、お前が好きなんだよ。」
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