翌日は刺す様な寒さだった。
それは1度マンションを出たももこが、羽織っていた上着を着替えに戻った程。
裏地にダウンを施した少し厚手のコートは、今日のワンピースと合わせたい気分では無かったけれどそんなことを言っている場合ではなかった。
日々の通勤でスカートを履くことは比較的少なく、専らパンツスタイルを好んでいるももこだが、今日のように取引先に出向いたり他社での打合せの際のみ意識的にワンピースを選んで身に付けた。
このコートだって普段なら最高のコーディネートになるはずなのに。
そんなことを思いながら、着替えたコートの襟を合わせると今日も1日が始まるのだと嫌でも思い知らされる。
職場までは地下鉄を乗り継ぎながら小1時間、副都心線が開通してからは10分弱時間短縮となり朝の弱いももこにはそれだけでも救いだった。
今の会社はオフィスを渋谷に構え、割りかしコンパクトな室内に社員はももこを合わせて6人アルバイトが2人とこじんまり運営をしているが、顧客の中にはけんいちの勤める会社の様な大規模な企業も幾つかあり、売上は近年上昇中の会社だ。
それでも小さな会社なので営業が取って来てくれた仕事にデザイナーが付いて、そこからクライアントの打合せへ営業に同行して三者面談を繰り返して仕事を遂げていくサイクルの中で、担当する顧客が多い時期は自分が営業なのかデザイナーなのか時々判らなくなることもあった。
そんな風に1週間は幾度も過ぎて行くのだから、年を重ねるのもあっという間だ。
地元の静岡でただぼんやりと夏休みや冬休みを指折り数えて待ちわびていた頃からは想像もつかない現実に、いつからカレンダーはこんなにも早く捲られる様になったのだろう、と最近のももこの疑問はそこだった。
今の歳になって小学校の同級生と付き合っていることや地元を離れて仕事に就くこと、その仕事でまさかけんいちに再会するなんて制服を纏っていたあの頃には夢にも思っていなかった。
今の生活を成す色んな事が、想像の範疇外。
そんな事を時折感傷的に思う時点で、随分と歳を重ねた様に感じるのだ。
出社して朝礼を済ませたももこは、何通かのメールに返信して手早く荷物を纏めると打合せのためにけんいちの会社に向かった。
地下鉄をJRに乗り換えながらコンビニで買ったコラーゲンドリンク(所詮気休めと思っているのについつい手に取ってしまう)を飲み干して、今日中に打合せする事を順繰り浮かべたりした。
その端々で、今日は会えることはないであろうけんいちの事が何故か過った。
約束の時間の10分程前にけんいちの勤めるオフィスビルの入口をくぐり、入って右手にある受付カウンターで社名と氏名を記入した。
受付応対してくれている女性社員は、いつも変わらず愛想のある微笑みを向けながら【入館証/ゲスト】と書かれたカードを手渡してくれた。
それから直ぐにエレベーターまでを通され幾度か押したことのある16階のボタンを押した。
じわじわと昇って行く数字をささぼんやり眺めながら、20名ほどを詰め込める鉄の箱の右隅に場所を移した。
時折人を乗せて降ろしてを繰り返して12階でまた1人を乗せた。
恐らくももこはあっ、という声を聞くまで全く気付かなかった。
エレベーターに乗り込んで来た顔を見て思わず他人の空似とまで思ってしまった。
それ位急な出来事。
「大野くん。」
「今日が打合せだったんだ?」
意味もなくその顔を思い出したり過らせたせいだろうか、はたまた会えないかなあ、なんて場違いにも期待してしまったからだろうか。
いずれにせよ唐突でももこは思わずわあ!、なんて素っ頓狂な声を上げてしまった。
「何だよわあ、て。人の会社で騒ぐな。」
そう言いながら僅かに呆れて(若干恥ずかしそうに)笑うけんいちは、スーツの上着は羽織らず細いストライプの効いたカッターシャツの上から社員証を掛けている。
確かにこのエレベーターにはももことけんいち以外に数名の社員(見渡せば皆けんいちと同様の社員証を首から下げているので恐らくそう。)が乗っている。
けんいちは小さく会釈なんてしてみせた。
「だって大野くんが何の前触れもなく現れるから!」
「いや、俺の勤め先だし。」
それは確かにそうなのだが。
分かってはいるがそういう姿で小脇に幾つかの資料なんて抱えられると、やはり彼はちゃんと社会人なのだと思わずにはいられなかった。
「大野くんの働いてる階って何階?」
「16。」
それじゃあ一緒かあ、とももこが呟く。
そんなやりとりの間にエレベーターは16階に止まり2人は連れ立って降りた。
すれ違う他の社員がお疲れ様とけんいちに声を掛け、けんいちもそれに愛想良く応えている。
何だか妙な光景だった。
「大野くんが愛想振りまいてる。」
「一応会社だからな。」
「会社だからなんだ。」
あの夜以来、初めて顔を合わせたけんいちは至って普通だった。
ももこは恋人の名を聞いてけんいちがあんなに驚いていたから次に顔を合わせると気まずいのではないか、何故かそう思ってしまっていた。
実際にこうして顔を合わせてみると、そんなことはただの思い過ごしだと分かることなのに。
何度か通い見慣れたフロアをけんいちと並びながら、ももこはそんな自分の行き過ぎた思考に溜息を落とした。
ガラス張りの向こうは、霞む程晴れた景色を見せている。
僅かに陽の射し込む場所では、けんいちの長い睫毛が光るのが分かった。
「なあ、さくら。今日の打合せってどれ位掛かるの?」
「途中経過報告みたいな感じだから、お昼前には終わるかな。」
ふうん、とけんいちが頷きその間にも尚すれ違う社員に軽く会釈で愛想を振りまく。
「それじゃあさ、今日昼一緒に食おうぜ。」
「あ、それいいねえ。大野くんご馳走してくれるの?」
「んだよ、相変わらず図々しい奴。」
相変わらず。
そう眉根を寄せて笑うけんいちの相変わらず、という一言に不思議と胸を撫で下ろす。
再会を果たしてから、けんいちはよくその言葉を口にしている様な気がする。
確かめる様にも、言い聞かせている様にも、あの頃との距離感を覚えているかと意識を切らさない呪文の様にも思える。
「じゃあ俺、昼休み入ったら連絡するわ。」
「うん、分かった。」
気が付くといつの間にか来客ブースで、けんいちは女性社員に一言告げ自分のデスクに着いた。
そんな後ろ姿は幼なじみではなく一サラリーマンの背中をしていた。
女性社員はやっぱり愛想良くコーヒーを差出し、暫くお待ち下さいと頭を下げて出ていった。
ゆらゆら立ち上る湯気の向こう。
乾いた風とは対照的な柔らかな陽射しが照らしていた、そんな横顔をももこは思い出してまた小さく溜息を吐いたのだ。
***
「1階エレベーターホールで!」
そうけんいちから電話が入ったのは12時3分を回ったところだった。
ももこの打合せはその丁度5分程前に終わり、自らの会社にも昼休憩を取りながら帰社する事を告げ、けんいちを待ちながら併設されたシアトルコーヒーで時間を潰そうとしていた時だった。
ももこは約束通りその場所で待ちながら、一斉に稼働し始めたエレベーターランプを眺めていた。
4機の箱が交互に開き、その都度満員に近い社員を吐き出していく様は小気味良く見応えがあった。
そしてあの電話から5分、満員の中の1人としてけんいちは現れた。
「お疲れ。」
そう片手を挙げるけんいちはチャコールグレーのスーツを羽織っている。
良く見るとその右手にはコートとビジネスバック。
「ランチ行くのにフル装備?」
そう尋ねるももこを促しながらエントランスとは真逆の方へけんいちは進んでいく。
「俺、午後から取引先回るから。さくらと飯食った後直行しようと思って。」
幾つかの角を折れて通用口と書かれた鉄の扉を潜り、そのまま業務用と思われるエレベーターで今度は地下へと降りる。
「さくらの会社って渋谷の方だろ?俺も昼からそっち方面なんだ。」
「あれ、何で会社知ってるの?」
エレベーターを降りるとそこは地下駐車場。
けんいちは手慣れた様子で1台目指して進んでいく。
「いやいや、名刺貰ったし。」
何言ってんの、おまえは?と言わんばかりの声は地下の空洞で思いの外良く響いて、ももこはそう言えばと頷いた。
「はい、乗って。」
けんいちは慣れた仕草で左側の扉を開けると、そう言ってももこを促した。
言われるがままにそこに腰を降ろすと、けんいちが優しく扉を閉めそのまま車の前方を通ってももこの右隣に腰掛けた。
少しだけ煙草の匂いが染み付いたシートが、何だか気まずく感じてしまう心臓を落ち着かせてくれた。
そういえば。
この間だって今だって、けんいちからは仄かに煙草の匂いがするのを、愛煙家ではないももこの鼻は敏感に察知した。
ただ彼が実際に煙草をくわえた姿を見ていないので、それは憶測の範疇。
けんいちがキーを回すと車内に鈍い振動が響き、カーステからは気の効いたFMラジオが流れ出す。
「俺さヒーター苦手で、すごい弱風だけどいい?」
「あ、私も苦手。」
奇遇だなあ、と茶化すつもで言ったのにけんいちにはあっさりあしらわれる。
地下から地上へ上がると数分しか経っていない筈の、外の景色がなんだか久しく思えた。
冬枯れの大通りに真っ直ぐ出ると直ぐに信号の赤色に阻まれ、時折反対車線の車が枯葉を舞い上がらせたりするのが見えた。
平日の昼間とは思えない位の穏やかなBGMに、少しだけ隣でハンドルを握る彼を盗み見た。
昔のけんいちをまじまじと見た事なんて1度だって無かったけれど、今ハンドルを掴む掌やその左手首の時計にやっぱり整った横顔はあの頃とは違うそれだった。
「大野くんて運転上手だね。」
「何だよ、さくら社交辞令とか言える様になったんだ?」
「何でよ。」
「だって運転の上手い下手が分かる様には見えないし。」
こちらを向き直る事無く淡々と投げ掛けてくるけんいちに、図星ではないのに図星を指された気になってしまった。
確かに運転の上手い下手など、せいぜいアクセル、ブレーキを踏む間合い程度くらいしか分からないのだが。
「たかしは車乗る?」
それはとても自然にけんいちから切り出され、ももこはもうすっかり耳に馴染んだその名前を危うく聞き漏らしてしまいそうだった。
「うん、乗ってるよ。先々週、茅ヶ崎に行って来たんだ。」
たかしの愛車は深いオリーブのミニクーパー。
背の低い車内で少しだけ窮屈そうにしているたかしはそれを酷く気に入っていた。
そしてそんな左隣で膝にはたかしの愛犬を乗せ(フレンチブルドックのキャリー、SATCにハマった時そう名付けられた。)、灰色の海岸沿いを規定の速度より若干オーバーしながら耳を澄ますと鼻歌なんかが聞こえてくるのだ。
僅かに音を外したハミングに耐えかねて吹き出すももこと、それに気付いて咳払いで誤魔化すたかし。
そして打つような潮風の中、やっと目が合ったたかしの見せた笑顔にももこは胸が潰れそうになった。
「湘南方面か。しばらく行ってないな。」
「大野くんは?車乗るの?」
「今乗ってるじゃん。」
「何かそんな言い方、杉山くんみたい。」
その言い草がどうやら心外だったようで、少しだけむっとしたのが分かって、それが可笑しかった。
「たまに乗るかな。最近休みの日にドライブとかしなくなったしな。」
「彼女は遊びに行こうって言ってくれるでしょ?」
「遊ぶって言っても。ちょっと近くを歩いたりするくらいで、遠出なんて1年以上してない。」
もう3年位一緒にいるからな、けんいちはすっかり馴れ親しんだ恋人の事をそう呟いた。
「3年経った今でも仲良しなんだね。」
まあな、とけんいちは胸ポケットに手を入れると初めてそこで煙草を取り出した。
それが日常なのだと言わんばかりにそれは自然な仕草だった。
「あ、ごめん。今普通に吸おうとしてた。」
「いいよ。大野くんやっぱり煙草吸ってたんだ。」
何が可笑しいのか、ももこが嬉しそうに笑うのを怪訝に感じながらけんいちはお言葉に甘えて、と窓を開けライターを点けた。
サイドに置かれたマルメンの箱と百円ライター。
後ろへ後ろへと千切れていく煙がきらきらと光る。
けんいちが息を吐く度、きらきらゆらゆら。
本当はもっとけんいちと彼女の3年に聞きたいことがあったはずなのに、彼女とはどうやって知り合ったの?きっかけは?どんな所が好き? いつもの口調でおどけて聞けばいいもの全てをももこは呑み込んだ。
この小さな箱の中で聞きたい話は、恐らくそれではない気がしていた。
取り立ててする会話もなくけんいちは静かに煙を吐き、ももこは流れに沿う人波を眺めた。
静かな空気になってもFMラジオが中和してくれる。
不思議だった。
気まずさもいらぬ緊張もない、ただ言葉を交わさないだけの瞬間が連なっていく。
地元のそれも同級生だと、こんなにも気を張らずに済むものなのだろうか。
フロントガラス一杯に真昼間の日射しを受け「こんだけ天気良ければヒーター要らずだろ、さくら?」なんて彼が笑うので、「それはこの車内だけ」、だなんて無粋なことは言えなかった。
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