今度飲みに行こう。
そう言ってももこが笑っていたあの日から、10日以上が過ぎていたが1度もけんいちの携帯は鳴らない。
お互い仕事をしながらそんなに直ぐに予定が立つとは思っていなかったが、あんな風に再会した後でここまで音沙汰の無い日常だと、あの出来事自体、本当に夢のように思えてならなかった。
とはいえ、けんいちも電話帳からももこの番号を引っ張り出しては眺めるだけだった。
実のところ携帯には高校時代に交換したももこの電話番号が、幾度か携帯の機種を変えてもしっかりとメモリーに登録されていた。
それがまたより一層、ももこの存在を幻の様にぼかしていった。
出社して会社のフロアの入り口をくぐると彼の恋人が見えた。
毎日会えなくても、出社して真っ先にこうして顔を合わせる。
そのほんの一瞬に彼女は微笑んで軽く会釈する、けんいちも薄く微笑む。
付き合い初めてから、もうずっとそうだ。
肩を並べて歩くのではなく雨風に当たらぬ様に守りながら側にいてあげなくてはいけない、そんな彼女を抱く度にけんいちから過去の恋は遠退いて行った。
このままどんどん離れていつか海に出て、遠い記憶の隅に流れ着くのだろう。
あれほど夢だ幻だと錯覚していたさくらももこは、いともあっさりけんいちの前に現れた。
それはいつも通りに忙しなくしている、午後のことだった。
この間打合せしたパンフレットのサンプルが上がったと持って来たのだ。
けんいちも自身が担当しているホテルの記事の最終的な確認のため前回と同様に会議室へ呼ばれた。
部屋に入るとそこには前回と同じ様に区切られたスペースが作られ、ももこが1人待っていた。
扉を開けた瞬間のその様子にけんいちは少しだけ緊張したが「大野くん久しぶり。」と、相変わらずなももこに声をかけられ一気に解れた。
広報担当の社員が別件で席を外していると笑いながらももこは手元のファイルを並べた。
ネイビーのワンピースに身を包んだ、夢でも幻でもないももこがそこにいる。
「元気だった?」と、 尋ねたその声の硬さに我ながら不躾だったかな、と思ったがそれがけんいちの精一杯だった。
ももこはファイルをけんいちと担当者の分と手渡しながら「元気だよ。大野くんは?忙しかった?」と、小首を傾げた。
「まあまあ、かな。」
「そうですかあ。私はね、忙しかった。」
「それ自分で言うか?」
「私は言う。」
図々しいやつ、とけんいちが言えば、嘘がつけない性分なんだと口を尖らす。
何だお前やっぱり昔とちっとも変わってない、とけんいちは不思議と安堵した。
ももこに手渡されたファイルの中には見覚えのあるホテルの写真と何度となく目にした風景が見開き一杯に配されていた。
一目でハワイの景色に見入ってしまう、中々いい出来栄えだと思った。
きっとこれなら広報担当者も納得するのではないか、それがけんいちの感想だった。
ひとしきり準備を終えたももこは窓の外を眺めている。
今日も霞むぐらいに晴れている。
「いい天気だなあ。」
そう呟いた目の前の人にけんいちはあの再会した日、やっぱり外を見て天気がいいと言っていたももこを思い出した。
変な女がいる、あの時はそう印象を受けたがそれがももこなら妙に頷けた。
「あ、そうだ大野くん。今夜空いてる?」
ももこのその声に、けんいちは顔を上げた。
「飲みに行こうよ。」
降ってわいた様な展開に、 けんいちは目を丸くした。
「急だな。」
「ごめんね。都合悪かったらまたにするよ。」
といいつ、微塵も悪びれる様子もなくももこが笑う。
「定時には上がれないけど、いい?」
「私も。」
「じゃあ終わったら連絡する。」
「やった!決まりね。」
ああ何食べに行こっかなあ、とももこが言うそばでけんいちは信じられない思いでいた。
じわりじわりと、体温が上がる感覚に掌は汗ばんだ。
「お待たせしました。」 と広報担当者が戻ってきて打合せが始まっても、1度上昇した体温が下がることはなく、その日の打合せもやっぱりけんいちはほとんど頭に入らなかったのだった。
***
ああ、終業がこんなに待ち遠しいことが未だかつてあっただろうか。
けんいちは自分の机に戻ってから残りの仕事に取りかかり、大体の時間の目安を出した。
遅くても19時半には会社を出れる算段をして、俄然やる気が出た。
自分がこれほどまでにちょろい男だったなんて、けんいちも今の今まで知らなかった。
昼食も食べには行かずコンビニで済ませた。
オニギリを片手に仕事をするなんてけんいちには考えられなかった。
自分の中で食事を片手間で済ましながら働くことをよしとしていなかったし、昼休憩を取ってもきちんと1日の仕事はこなしていた。
だからけんいちのそんな姿を目にした同僚や上司はさぞかし驚いたに違いない。
なりふりなんて構っていられない。
そんなけんいちの努力も実り会社を出たのは午後7時を回った頃だった。
全ての業務を終えて足早に荷物を纏めフロア入口を横切ると、受付業務をやっぱり全て終えた彼女が微笑みかけてきた。
呼び止められて、慌てて足を止めたけんいちに彼女は「今日は遅い?」と尋ねた。
「地元のやつと飯食って帰る。」
「そっか。あんまり遅くなっちゃだめだよ。」
物分かりよく優しい彼女は、そう笑ってけんいちを送り出した。
付き合いも長くなるとこうしたやり取りも淡白になる。
まだ学生の頃の彼女ならここで大人しく引き下がることはなかったかもしれないが、お互い仕事を持つようになってからは彼女も余計な詮索をすることは無かった。
彼女は元々、恋人と離れている事がとても耐え難い子で、朝起きてから夜寝るまでの間片時も忘れたくないし忘れられたくないのだと言っていた。
気が付くとその内そんな風に繋ぎ止めたい物は離れてほつれてしまう、とも。
けんいちにはそんな彼女を理解することが出来ずぶつかることも少なくはなかったが、その不器用さを自分に重ねた時ようやく彼女を受け入れる事が出来たのだ。
そんな恋人の信頼を勝ちえたけんいちは今、足早に駅へ向かっている。
帰宅ラッシュに差し掛かる駅へはすでに人の流れを成し、けんいちもそこへ流される様に改札までをくぐった。
携帯を取り出し何度か眺めただけの番号を引き出した。
時折ふと思い出してはそれを見つめたが電話を鳴らすこともなく、だけどメールアドレスを知らないけんいちにはそれ以上どうすることも出来ずにいた。
それが今日発信ボタンを押そうとしている。
味気ない呼び出し音が鳴るたび携帯を当てた耳の奥では不思議と脈打つ。
呼び出しのコールが4回、繰り返した所で相手が電話を取った時には、けんいち自身声を発することを忘れてしまった。
『大野くん?』
そう問いかける声を聴くだけで、酷く胸が苦しかったのだ。
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