なんて呼ぼう。
こんなにも胸に溢れてくる、この気持ち。
空色のブルグミュラー。
ピアノを弾く指に、揺れる栗色の長い髪。
そんな背中に、いつだってひどく憧れていた。
レースのカーテンがひるがえると、甘くて柔らかい卵の匂いがする。
ああ、お母さんがオムレツを焼いてくれてるんだと、思いながら私はピアノを弾く。
ガレージからは、エンジンの音、お父さんがお気に入りのワーゲンのキーを回す音。
白い壁の青い屋根、庭には楡(にれ)の木。
そこで、私は生まれた。
私が生まれたとき、街にはクリスマスカラーが溢れていた。
その日は記録的な大雪で、お父さんは渋滞に阻まれた道路に、愛しのワーゲンを乗り捨てて二回雪の上に転んで帰って来た、とお父さんの親友の大野くんが話してくれた。
私がその話をすると、お父さんはちょっと不機嫌になって、お母さんは微笑んだ。
私が生まれると、お母さんの親友のまるちゃんが私の子供部屋の壁一面に、絵を描いてくれた。
刺繍を施したみたいな優しいパステルの絵は、今でも少し陽に焼けて私の部屋にある。
「私、大きくなったらお母さんみたいになりたいなあ。」
夢は何?と尋ねられると、決まって必ずそう答えていた。
私が、愛してやまないお母さんのようになりたいと思うのは必然だった。
今だってそうだけど、我が家は本当にお母さんを中心に廻っていて、お父さんも私も本当にお母さんが好きだった。
料理上手で、優しくてしなやか、そして強い。
何より、私にブルグミュラーを弾いて聴かせてくれる。
お母さんの栗色の柔らかな長い髪も、ピアノを弾く指でさえ私の憧れだった。
だけど、お母さんは私がお母さんの真似をするたびに、ちょっとだけ困ったように笑った。
そしていつしか、私にブルグミュラーを弾いて聴かせてはくれなくなった。
「まさか、あの杉山くんの子供が音大生になるなんて!」
「それを言ったら、まるちゃんだってそうじゃない?あの大野くんの子供が美大生だなんて。」
だって私たちの子供よ!と、笑い声が響く。
レースのカーテンがひるがえると、お母さんとまるちゃんの声が聞こえてくる。
半月に一度こうやって、お母さんとまるちゃんは談笑を交わす。
まるちゃんが家を訪ねる前には、お母さんが決まってお菓子を焼く。
まるちゃんは、季節の絵葉書を書いては届けてくれる。
お母さんがブルグミュラーを弾いてくれなくなってから、私はモーツァルトやショパンに出会った。
弾ける曲が増えて、好きな作曲家にも出会った。
私が音大に合格した晩、お母さんが本当に久しぶりに私にブルグミュラーを弾いてくれた。
あの頃聴いた変わることのないブルグミュラーで、私は涙が止まらなくなった。
「どうして泣くのよ」と、お母さんは優しく私を抱き締めてくれた。
あの夜、私は肩まで伸びた髪を切ろうと決めた。
「ねえ、ピアノ弾いてよ。」
まるちゃんが私に手招きした。
「何がいい?」
「私、音楽さっぱりなんだよねえ。」
「ええ、どうしようかな。」
まるちゃんの隣でお母さんが笑ってる。
「じゃあ、まずは指ならしで。ブルグミュラーでも。」
何それ?と、まるちゃんも笑った。
私は、褪せてくたくたになったブルーの表紙をめくった。
お母さんのようになりたかった、だけどどう真似たって私は私。
それに気付いたときお母さんはもう、困ったよう笑ったりはしなくなった。
「ちゃんと聴いててね、これが私のブルグミュラー。」
私はいつだって、心に青のブルグミュラーを抱く。
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