思えば、君なくしてこの世界が廻るはずがないんだ。
すっかり陽の落ちた窓の向こう、しかし時計はまだ17時50分。
いつの間に太陽は、職務怠慢をするようになったのだ。
こちらの業務終了は18時で、それを待たずして地平線の向こうへと沈んで行ったのかと思うと妙に気が急いた。
地元の大学を出て、そのまま地方銀行でOLになった自分を絵に描いたような平凡さだと、穂波たまえは思っていた。
毎朝決まった時間に目を覚まし、朝食を摂りメイクを施しクローゼットとにらめっこをするが散々悩んだ挙げ句、手に取るのはお気に入りのポール・ジョーのオレンジピンクのワンピースではなく、その隣のZARAの無難なニットワンピースだったりするのだ。
それから30分程電車に揺られて、ビリー・ジョエルを聴きながら(中でもピアノマンはiPodのリピート回数でダントツ)村上春樹を読み終える頃会社に到着する。
そんな日々を他でもないたまえ自身酷く安心して暮らしていたし、この先もそれで構わないと思っていた。
吐き出された最寄駅のホームで、くたくたの体と妙に冴えた頭でたまえは思い出していた。
昨夜見た夢は、小学生の頃の自分だった。
おさげをして眼鏡をかけていた自分、毎日幼なじみのあの子と手を繋ぎ、川原の畦道を行く自分。
空を飛ぶ訳でも魔法を使う訳でもない、ただ手を繋ぎそこをてくてく進むのだ。
普段夢などほとんど見ない彼女だから、単調なそれでも余計に余波を残していた。
たまえはそんな幼なじみのその子の事がとても好きだった。
いつも明るく、物事をごくシンプルに見る瞳を持っていて、絵を描いたり空想に耽っている彼女。
いつだって誰かの視線を捕える小柄な体からは、計り知れない存在感を示していた。
常に日向の様なその小さな女の子を、たまえは誰よりも誇らしく思っていたし、こうして日々を温くやり過ごしているたまえを、そんな彼女は大の親友だと言って憚らない。
同時にそんなたまえ達の姿を見て「羨ましい。」、と言った少年の眼差しもふと甦った。
その少年の陽に焼けた肌と、僅かに色素の薄い瞳が心底そう呟いたので、たまえは酷く驚いたのを憶えている。
彼にもそんな親友が居たのだが、転校が決まり東京へ行ってしまった直後の事だった。
すっかり陽の傾いた夕焼けの中で、そうまさに今日の夕焼けの様な日だった。
彼の寂しい気持ちなんて安易に想像することが出来ても、その深さなどあの瞳を見るまで知る由も無かったのだ。
夕焼けに染まるまだ幼い背中を見たその時、初めてたまえは少年に薄ら苦い哀愁と、胸を締め付けられる程の思慕を感じたのだ。
それが初恋だったのだと知るのは、それから大分あとの事。
駅の改札を出ると辺りはすっかり夜闇が降り、街灯やら居酒屋のネオン達が駅前を華やかに彩っている。
定期を鞄の中に仕舞い、入れ替わりで携帯を取り出すと不在着信が入っていた。
それを確認しようとすると再度携帯が震え、今度はメールで“こっち”とだけ打たれていた。
顔を上げると、目の前にはすっかり見慣れたワーゲンと、やっぱり色素の薄い瞳がこちらを見ていた。
「おかえり、穂波。」
そう言ってこちらへ片手を上げて微笑んでいる彼に、同じように微笑み返してみせた。
その彼の背中は、もうあの夕焼けの中にあった小さな頼りないそれではない。
たまえの手を取るその腕は父親の掌よりも、はるかに逞しく感じる。
そんな瞬間に思うこと。
絵に描いたような平凡な日々も、あの夕焼けに染まった背中を手に入れた日からもうずっとそれでいい、とそうたまえは思っていた。
次の休日にはお気に入りのポール・ジョーを着て彼と出かけよう、そんな事を秘かに抱いた木曜日の夜だった。
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