さくらももこは、事務所名とさくらももこと入った名刺を差し出して微笑んでいる。
よく手入れの行き届いたピカピカの爪に、フューシャピンクのロエベの名刺入れ。
瞼の所で綺麗に切り揃えられた前髪に、肩の上で揺れる紅茶色したボブヘア。
その全てを、けんいちは食い入る様に見つめた。
これはきっと同姓同名なんかじゃない、そうは思っても、はっきりとその顔を見るまでは確信が持てなかった。
それぐらい、予想外な出来事だった。
そして彼女が顔を上げると、今しっかりと目が合った。
マスカラで綺麗に縁取られた黒目がちな瞳に、けんいちは自分の姿を見たのだ。
彼女が大きな瞬きをした次の瞬間、えー!と素っ頓狂な声を上げたもんだから、けんいちは思わず後退ってしまった。
「大野くんだよね?大野くんでしょう!?」
ももこの事務所の人も広報担当の社員も、2人を交互に見る。
「大野くんの会社だったんだね!うわあ!久しぶりだね!」
けんいちの腕を今にも掴みそうな勢いの彼女は、驚く程無邪気に微笑んだ。
「何だ、さくら知り合いだったんだ?」
「はい!幼馴染なんです、地元の。」
幼馴染。
高校を卒業して数年、ろくに連絡も取っていなかった関係を彼女はいとも容易くそう告げた。
そりゃあ幼馴染なんだから地元は一緒だろう よ、なんて思いながらもけんいちは堪らなく不思議な気分だった。
ももこは一体どんな女性に成長してるんだろう、なんて思いを馳せたのがつい昨晩のこと。
その彼女が今、こうして目の前にいるのだ。
面影をそのまま残して、しかし見た目はすっかり女性のそれだった。
懐かしい再会に浸る間もなく、その後の打合せは滞りなく進められた。
けんいちはというと、資料を追う作業とデザインに使う写真の確認だけは記憶がはっきりしているが、それ以外のことは全くもって頭に入らなかった。
目の前でパンフレットのデザイン案を詰めていくももこは、つい先ほどけんいちを見て無邪気にはしゃいでいた彼女ではなかった。
ブランドイメージがどうとか、コストがそれならじゃあこのモデルはどうだと提案する彼女は、まるで別人のようだった。
打合せの1時間半はあっという間に過ぎた。
エレベーター前までの道のり、ももこのボブヘアがキラキラと揺れているのをけんいちは目の端で捕えていた。
「昨夜楽しかった?」 と、不意にももこに問われてけんいちは彼女に向き直った。
「ああ。城ヶ崎とか平岡とかあと、穂波とか。すげえ楽しかった。」
「あれ、関口は?」
「さくらと関口が欠席だったんだよ、夕べは。」
「そっか。」
関口のやつ何してんだろ、とやっぱり独り言にしては大きな声でももこが呟く。
「大野くんまた今度飲みにでも行こう?私の連絡先知ってるよね?」
と、ももこはけんいちを覗き込んだ。
心なしかその瞳が輝いている様にも見えた。
「多分。」
「多分て何!名刺にも書いてあるし、大野くんも番号変わってないよね?」
「変わってない。」
「オッケ。」
半ばそんなももこに圧倒されているけんいちを他所に、さらに彼女は謎のブイサインを作って見せた。
相変わらずの笑顔で。
エレベーターホールでももこ達を見送り、広報担当とけんいちは互いにお疲れさまでしたと頭を下げた。
「今回の担当さん何か溌剌とした人でしたね。大野さん同級生なんですね、世間って狭い。」
「ええ、自分でも驚いてます。」
そう一番驚いているのは他の誰でもない、けんいち本人だった。
瞬きするたびにまだ、目の端でももこのあの紅茶色のボブヘアがチカチカと揺れている様に思えてならなかった。
昼間あれだけいい天気だったはずが、夕方頃から怪しい雲行きをなしていた。
遠く向こうが白く滲んでいるから、その内こちらにもその気配がやってくるのだろう。
就業時間をとうに過ぎていたが、定時で上がれたことは入社以来ただの一度もない。
けんいちは、明日の会議に必要な資料を仕上げると一服のために席を立った。
その際に携帯を確認すると彼女から、『部屋で待ってるね。』と、『今日の夕ご飯は鶏そぼろご飯だよ。 』のメールがそれぞれ届いていた。
そんなメールの内容を眺めながら、けんいちは未だ夢心地のようだった。
理由は分かっている。
取引先にももこがいたこと、それ以外他ならない。
それは懐かしさだったり、一種のノスタルジックな感情だったり。
久しぶり過ぎてぎこちなかったのはけんいちだけで、ももこの方は時間の流れなど微塵も感じさせないほど距離を縮めてきたのだ。
今思うと、昔からそうだった。
けんいちが再び静岡に戻って来たときも学年が変わりどこかよそよそしい同級生の中、顔を見るなり真っ先に駆け寄ってきたのは確かに彼女だった。
人懐こい彼女の周りはいつでも穏やかな空気に包まれていて、思春期特有の刺々しさや気まずさが全くない女子だった。
そんなももこを、けんいちはいつしか目で追うようになっていた。
決して特別美人でもなくどちらかと言えば男も女も関係ない、鮮やかなデイジーのような。
そんな彼女が、けんいちの初恋だった。
淡い思い出だ。
窓ガラスの向こうに映る自分の顔が、やけに情けなく見えて思わず喉の奥で笑った。
外はすっかり夜の街。
ネオンを灯した街並やライトアップし始めた広告灯、オフィスビルの16階から見る東京はいつだってジオラマのようだ。
怪しい雲行きは結局雨粒を落とし、そこかしこを飴色に煮詰めていた。
このジオラマの空のどこかにももこも暮らしていて、けんいちが見ているこの景色をその瞳に映していることだろう。
くたびれて家に帰れば、可愛い彼女と鶏そぼろご飯。
優しくて柔らかな幸せな日々で、あの頃とは変わった今がある。
そうやって月日は流れていくのだ。
けんいちは指先で燻る煙草の火をもみ消すと、彼女へメールの返信をしてようやくそこを後にした。
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